こんにちは!
今日は、幕末の三舟(さんしゅう)について紹介したいと思います!
幕末の三舟とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した名前に舟が付く3人の幕臣のことです。
幕末の三舟に選ばれたのは、
勝海舟(かつかいしゅう)
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)
高橋泥舟(たかはしでいしゅう)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
明治の政治家。
通称は麟太郎、名は義邦、後に安芳と改名。
海舟はその号。
旗本小普請組勝小吉の長男。
蘭学を学び、砲術、航海、測量に一家をなし、蕃書調所の創設準備委員、次いで長崎の海軍伝習所に入る。
安政7年(1860年)、『咸臨丸』艦長として、遣米特派使節に随行。
軍艦奉行を経て、慶応4年(1868年)、陸軍総裁、若年寄となり、西郷隆盛と江戸開城を協定。
1887年、伯爵、1889年、枢密顧問官。
著作『まがきのいばら』『亡友帖』『断腸の記』『幕府始末』『外交余勢』『海軍歴史』『陸軍歴史』『吹塵録』等。
談話の筆記に『氷川清話』がある。
通称は鉄太郎。
刀槍に長じ、無刀流を編み出して春風館道場を設立。
講武所剣術世話役、浪士取締役を務めた。
慶応4年(1868年)3月、江戸開城に際しては、勝安房(海舟)の使者として駿府の大総督府に赴き、東征軍参謀西郷隆盛と会見、徳川家存続に尽力した。
明治2年(1869年)、静岡県権大参事として旧幕臣の処遇斡旋に努め、次いで茨城県参事、伊万里県知事を歴任。
後に明治天皇の侍従、宮内少輔。
1886年、子爵、勲二等に叙せられた。
禅機に達した人生観は剣の名声と相まって、剛毅武人型の模範として後世に名高い。
山岡正業の次男。
通称、精一。
高橋家の養嗣子となった。
文久2年(1862年)、講武所師範役、翌年に新徴組を統率、後に遊撃、精鋭両隊を統率し、恭順派に加わって徳川慶喜を護衛した。
如何でしたか?
勝海舟は、比較的有名ですが、山岡鉄舟と高橋泥舟はマイナーかもしれないですね。
私は、いつも高橋泥舟だけ忘れてしまうので、しっかり覚えたいと思います!
最後までお読み頂き有難う御座いました!