こんにちは!
今日は、京都三大銅像について紹介したいと思います!
京都三大銅像に選ばれたのは、
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
倒幕運動に多大な貢献をした。
本名は直柔、別名は才谷梅太郎、通称は龍馬。
江戸で剣術修行中に知った武市瑞山、久坂玄瑞らの影響を受けて尊王攘夷運動に入り、文久2年(1862年)、脱藩して江戸で幕府の軍艦奉行勝安房守(勝海舟)の知遇を受けた。
航海術に専心する一方、勝との繋がりから薩摩藩の援助を受けて長崎で洋式銃砲の取り引きを行う貿易商社亀山社中を設立、慶応2年(1866年)、薩摩藩と長州藩の間を斡旋して両藩の和解、盟約を成立させた。
慶応3年(1867年)に脱藩の罪を許され土佐藩に戻り、亀山社中を海援隊と改め藩と密接に結んだ。
長崎から上京する藩船の中で土佐藩士の後藤象二郎と国家構想「船中八策」を纏め、土佐藩はこの案を元に将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した。
討幕派と佐幕派の調停、融合を図ることに土佐藩の勢力拡大の道を求め、朝幕連合政権による新体制樹立を謀議中、同志の中岡慎太郎と共に京都の旅宿近江屋で刺客に暗殺された。
幼名は与七、後に了以。
諱は光好。
京都嵯峨の土倉吉田家の出。
文禄1年(1592年)、豊臣秀吉から、慶長9年(1604年)以降は徳川氏から朱印状を与えられ、安南国東京に朱印船(角倉船と呼ばれた)を派遣し巨利を得た。
また、治水事業、河川開発の技術にも長じ、同 11年の大堰川(丹波〜山城)の浚渫、疎通をはじめとして、富士川(駿河岩淵〜甲府)、天竜川(遠江掛塚〜信濃諏訪)、高瀬川(京都二条〜伏見)等の開削を行い、これらの河川を利用して材木その他の物質を搬出し資産をなした。
高山彦九郎とは、江戸時代中期の勤王家。
先祖は新田氏。
少年の頃から勤王の志を抱き、京都に上って公家と交遊し、次いで諸藩を巡遊して勤王主義を説き、ロシアの南下を聞き伝えて松前に赴いたが、幕府に圧迫されて久留米に逃れ、自刃。
京都の三条大橋で御所に向かって拝跪した奇行は有名で、今日でも彦九郎の銅像が同所に残っている。
時代先覚者の1人で、林子平、蒲生君平と共に寛政の三奇人と称された。
如何でしたか?
意外な人物の銅像が立っているみたいですね。
坂本龍馬は有名ですが、角倉了以と高山彦九郎は少々マイナーかもしれないですね。
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