こんにちは!
今日は、幕末の四賢侯について紹介したいと思います!
幕末の四賢侯とは、幕末に活躍した4人の大名のことです。
幕末の四賢侯に選ばれたのは、
松平慶永(まつだいらよしなが)
伊達宗城(だてむねなり)
山内豊信(やまうちとよしげ)
島津斉彬(しまづなりあきら)
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
松平慶永とは、幕末の越前藩主。
越前守。
号は春嶽。
田安斉匡の6男。
天保9年(1838年)、松平斉善の嗣子となり越前藩主を襲封。
藩政改革の為、橋本左内、由利公正らを重用し、殖産興業に成功し、種痘等、洋式技術の導入にも努めた。
ペリー来航の際には、攘夷論を提唱、条約無断調印に反対。
また、将軍継嗣に一橋慶喜を推して大老井伊直弼と対立し、安政の大獄では謹慎処分を受けた。
参勤交代の旧習を緩和する等、一橋慶喜と共に幕政改革に尽力。
後に朝議参与、京都守護職を歴任。
王政復古前後には討幕派と対抗して土佐藩主山内豊信らと共に将軍の朝政参与を主張。
新政府成立後、議定、民部卿、大蔵卿。
16歳の時から書き続けられた日記(『松平春嶽全集』4巻)を残す。
旗本山口直勝の次男。
文政12年(1829年)、宇和島藩主伊達宗紀の養嗣子となり、弘化1年(1844年)、藩主襲封。
将軍継嗣問題で安政5年(1858年)、藩主を退いてからも幕政参与として公武合体を提唱し、列国代表をも接見した。
明治新政府成立とともに議定に任じられ、以後、外国事務総督、外国官知事等を歴任。
明治2年(1869年)7月、民部兼大蔵卿に就任。
同4年4月には欽差全権大臣として清国に赴き、対等の修好条約を結んだ。
第10代藩主豊策の5男である豊著の子。
号は容堂。
嘉永1年(1848年)11月、襲封。
第14代藩主となる。
識見が広く人材を登用して名君の聞えが高く、明治維新の序幕をなす大政奉還の演出者として著名。
将軍継嗣問題では一橋慶喜を擁して処罰を受け、藩主を豊範に譲った。
文久2年(1862年)、公武合体の趨勢の中で、松平慶永らと共に幕政参与を委嘱され、朝幕間の斡旋に努めた。
慶応3年(1867年)、薩長両藩による倒幕の動きが強まると、坂本龍馬らの建策に従い、いち早く将軍慶喜に大政奉還を説いて実現させ、次いで王政復古に際しては議定として公議政体論を唱え、徳川氏処罰に反対した。
明治政府では内国事務総裁を務め、明治2年(1869年)、病にかかり辞官した。
詩や書を良くし、「鯨海酔侯」「九十九洋外史」等の雅号を持った。
なお、土佐では「やまのうち」と呼ばず、「やまうち」と呼ぶ。
藩主斉興の長男。
お由良騒動の末、嘉永4年(1851年)2月、襲封。
早くから聡明の聞こえが高く、和漢洋の学問に秀でていた。
島津家24代の藩主重豪の治績を継いで西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)ら下級武士を藩政に登用し、財政改革に尽力。
またペリー来航による国内不安に際し、幕府に対する強い発言力を持って開国と海防の要を説いた。
藩内に集成館を設立して洋式科学の導入に努め、大砲をはじめ、ガラス、写真等、後世の殖産興業の基礎となった化学器械の製造を行わせた。
城内に電信を架設し、また洋式軍艦を建造し、日章旗を日本総国船印として幕府に認めさせる等、啓蒙君主としての目覚ましい治績を残したが、コレラにかかって急死した。
如何でしたか?
江戸後期の三名君に、島津斉彬が追加されていますね。
島津斉彬が明治時代まで生きていたら、もっと日本は先進的な国になっていたかもしれないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!