こんにちは!
今日は、両丹について紹介したいと思います!
両丹は、両丹地方とも呼ばれます。
両丹に選ばれたのは、
の2つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
山陰道の一国。
中国。
もと丹波国の一部であったが、和銅6年(713年)、分割されて一国となった。
『丹後国風土記逸文』には水江浦島子の伝説があり、その舞台が与謝郡日置里となっている。
これは後世の浦島太郎の説話の元をなすものである。
『延喜式』には加佐、与謝、丹波、竹野、熊野の5郡があり、『和名抄』には郷 35、田 4756町が記されている。
日本海に面し古くから大陸との関係が深かったことは京丹後市の函石浜遺跡から中国、新朝の王莽の貨泉が出土したことからも推測できる。
平安時代にも貞観5年(863年)、新羅人が、延長7年(929年)、渤海国使が来着したことが記録されている。
鎌倉時代、守護は承久3年(1221年)頃、北条氏一族が在任し相伝したが、遅くとも嘉元4年(1306年)以降は六波羅探題南方の兼任となった。
室町時代には山名氏が、後に一色氏が守護となった。
織田信長の時代には一色氏から長岡氏に変わり、豊臣秀吉の時代には細川(もと長岡氏を称する)藤孝(幽斎)が領し、後にその子の忠興が跡を継いだ。
江戸時代には慶長5年(1600年)、京極氏が 12万 3000石で領したが、後に宮津、峰山、田辺の3藩に分かれ、寛文6 年(1666年)には、宮津藩主京極高国が所領を没収されて陸奥に流され、同8年には牧野氏が田辺藩主、宝暦8年(1758年)には松平氏が宮津藩主となる。
松平氏は後に本庄氏を称した。
峰山には京極氏が封じられて幕末に至った。
明治維新を経て明治4年(1871年)7月、各藩はそれぞれ県となったが、11月、豊岡県に併合され、1876年8月、京都府に編入。
山陰道の一国。
上国。
「記紀」ではともに「たには」と読む。
崇神天皇 10年の条には、四道将軍が各地に派遣され、丹波にはタニハノミチヌシノミコトが遣わされ、継体天皇8年の条には武烈天皇崩御後、継嗣が無かった為、仲哀天皇5世の孫倭彦王を捜し求めたところ、丹波国桑田郡に見出したことが記されている。
『続日本紀』には和銅6年(713年)4月、丹波国を分割して、丹後国を設置したとある。
『旧事本紀』には丹波国造が見えており、『続日本紀』延暦2年(783年)の条に見える国造に任じられた丹波直真養はその後裔であろう。
『延喜式』には桑田、船井、多紀、氷上、天田、何鹿の6郡があり、『和名抄』には 74郷、田1万 666町が記されている。
鎌倉時代には承久の乱に際し、当国の武士の多くが朝廷側に立った為、戦後には処分を受け、北条氏及び六波羅探題の支配下に置かれ、室町時代には仁木氏、山名氏、細川氏が守護となった。
織田信長の命によって明智光秀が当国を平定して領したが、間もなくともに滅び、豊臣秀吉の養子秀勝が福知山を、前田玄以が八上を領した。
関ヶ原の戦い後、福知山、八上の2藩に分かれたが、後に7藩となり、福知山に朽木氏、亀山に松平氏、山家に谷氏、篠山に青山氏、綾部に九鬼氏、園部に小出氏、柏原に織田氏が封じられて幕末に至った。
明治維新を経て明治4年(1871年)7月、各藩はそれぞれ県となったが、11月、京都府と豊岡県に併合され、1876年、豊岡県は廃されて京都府と兵庫県とに編入。
如何でしたか?
確かに似た名前の地域が近くにありますね。
今まであまり意識していませんでした。
どちらも行ってみたいと思いました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!