こんにちは!
今日は、両毛について紹介したいと思います!
両毛は、両野とも言います。
両毛に選ばれたのは、
上野国(こうずけのくに)
下野国(しもつけのくに)
の2つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
東山道の一国。
もと下野国とともに毛野国と称したが、後に上下に分かれ、上毛野(上毛とも略する)となり、更に「こうずけ」となった。
古墳群の多いことから、大きな政治勢力のあったことが知られ、また上野三碑等から、高度な文化を持っていたことが分かる。
朝廷も東国経営の要地として重視し、平安時代には親王任国であった。
『延喜式』には碓氷郡、片岡郡、甘楽郡、多胡郡、緑野郡、那波郡、群馬郡、吾妻郡、利根郡、勢多郡、佐位郡、新田郡、山田郡、邑楽郡の 14郡とあり、『和名抄』には郷 102、田3万 937町とある。
平安時代後期、源義家の子孫が新田荘にあって勢力を伸ばし、新田氏を称して鎌倉時代にも栄え、南北朝時代には新田義貞が出て活躍した。
室町時代には上杉氏が守護となり、戦国時代には長尾氏、後北条氏、武田氏がその支配を巡って争った。
江戸時代には館林に秋元氏6万石、伊勢崎に酒井氏 2万石、高崎に松平氏7万 2000石、安中に板倉氏3万石、小幡に松平氏 2万石、沼田に土岐氏3万 5000石、吉井に松平(吉井)氏1万石等があり、大藩は無かった。
徳川氏は新田氏の子孫を称した為、天領も多く、幕府の厚い保護を受けた寺院もあった。
明治4年(1871年)の廃藩置県により7月に藩は県となったが、10月には群馬県に統一された。
下野国とは、現在の栃木県。
東山道の一国。
上国。
もと毛野国が上毛野国(後の上野国)と下毛野国(後の下野国)とに分かれたと言う。
毛野臣は東国の大族として『日本書紀』に屡々現れる。
下毛野国造とともに那須国造の存在が持統3年(689年)の那須国造碑(大田原市)に見える。
『延喜式』には足利郡、梁田郡、安蘇郡、都賀郡、寒川郡、河内郡、芳賀郡、塩屋郡、那須郡の9郡があり『和名抄』には郷 70、田 3015町を載せている。
平安時代中期、地方に武士の勢力が強まると、その先駆をなして天慶2年(939年)、関東に平将門が乱を起こし、一時は下野の国府も陥った。
この時、将門の乱を平定した藤原秀郷が下野守に任じられた。
秀郷の子孫は小山氏を名乗り、鎌倉時代には守護として強い勢力を奮った。
この他、足利郡の足利荘には源義家の孫である義康から始まる源氏が次第にその勢力を蓄え、鎌倉時代には北条氏と結び幕府において重きをなし、やがて足利尊氏が鎌倉幕府に代わって政権を握るに至った。
室町時代には小山氏、宇都宮氏、結城氏が守護となったが関東管領の管轄下に置かれた。
江戸時代には宇都宮藩、足利藩、烏山藩、黒羽藩、大田原藩、壬生藩、佐野藩、吹上藩、喜連川藩の諸藩に分かれていた。
明治4年(1871年)、廃藩置県で、4月に各藩はそれぞれ県となり、11月に宇都宮県と栃木県とに併合され、更に1873年6月に栃木県に合併された。
如何でしたか?
両毛線という鉄道が今もありますが、昔は上毛野と下毛野と呼ばれていたのですね。
少し納得しました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!