こんにちは!
今日は、東京三大銅像について紹介したいと思います!
東京三大銅像とは、東京都にある19世紀末に建立された3体の銅像のことです。
東京三大銅像に選ばれたのは、
楠木正成(くすのきまさしげ)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
大村益次郎とは、幕末の洋学者。
日本の近代的軍制の創始者。
周防国吉敷郡鋳銭司村字大村の医者である村田孝益の長男として生まれ、幼名は惣太郎、諱は永敏、通称を良庵と言い、後に慶応1年(1865年)、蔵六と改称。
兵学を修め、宇和島藩御雇となった後、蕃書調所で教授手伝い、更に講武所で教授を歴任。
明治2年(1869年)、兵部大輔となり、諸藩混成の士族的御親兵を国民的な近代軍隊へ改組する為、フランス陸軍、イギリス海軍を模範として一連の兵制改革を行ったが、旧士族の反感を買い、9月4日、京都の止宿先で襲われ、刺された傷がもとで大阪の病院で死亡。
通称は吉之助。
南洲と号した。
薩摩藩下級士族の出身。
藩主の島津斉彬の知遇を受け、藩政に参画。
慶応3年(1867年)12月9日の王政復古に重要な役割を演じ、新政府参与、戊辰戦争では大総督参謀となった。
明治4年(1871年)、参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したが、征韓論を唱えて政府にいれられず辞職。
帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力した。
しかし、中央政府との疎隔が甚だしくなり、部下に擁立されて1877年、西南戦争を起こし、遂に敗れて城山で戦死した。
死後、陸軍大将の位階等が復元された。
河内の土豪。
正成以前の楠木氏については不明。
元弘1年=元徳3年(1331年)、後醍醐天皇の召しに応じて笠置山の行在所に参向し、河内赤坂城に挙兵して六波羅勢の攻撃を防いだが落城。
翌年、千早城を築いて籠城し、幕府軍の猛攻に耐え、諸国の反幕勢力の挙兵を促した。
建武中興の際その功により、河内、和泉の守護、河内の国守に任命された。
建武2年(1335年)、足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと、新田義貞らと共にこれを討ち、一旦は撃退した。
翌延元1年=建武3年(1336年)、尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際、摂津湊川にこれを迎撃して敗死。
如何でしたか?
靖国神社の大村益次郎像、上野公園の西郷隆盛像は知っていましたが、皇居外苑の楠木正成像は知らなかったです。
東京に行った時に見たいと思いました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!