こんにちは!
今日は、日本三忠臣について紹介したいと思います!
日本三忠臣とは、勤皇思想が広まった江戸時代の儒学者安東省菴によって忠臣とされた3人の人物です。
日本三忠臣に選ばれたのは、
楠木正成(くすのきまさしげ)
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
河内の土豪。
正成以前の楠木氏については不明。
元弘1年=元徳3年(1331年)、後醍醐天皇の召しに応じて笠置山の行在所に参向し、河内赤坂城に挙兵して六波羅勢の攻撃を防いだが落城。
翌年、千早城を築いて籠城し、幕府軍の猛攻に耐え、諸国の反幕勢力の挙兵を促した。
建武中興の際、その功により、河内、和泉の守護、河内の国守に任命された。
建武2年(1335年)、足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと、新田義貞らと共にこれを討ち、一旦は撃退した。
翌延元1年=建武3年(1336年)、尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際、摂津湊川にこれを迎撃して敗死。
清盛の長子。
12歳で蔵人となって以来、保元・平治の乱で父清盛に従って活躍。
長寛1年(1163年)、従三位に叙される。
平氏政権の確立とともに官位が累進し、仁安2年(1167年)、従二位権大納言、翌年、病により官を辞したが、承安1年(1171年)、権大納言に復し、治承1年(1177年)、正二位内大臣左近衛大将。
小松第にいたので「小松内府」と呼ばれた。
鹿ヶ谷の陰謀事件で、後白河法皇を幽閉しようとする父を諫めて、法皇の罪を不問とした。
同3年、病の為、職を辞し、入道した。
『平家物語』には、道理を弁えた人物として描かれている。
藤原藤房ともいう。
宣房の子。
中納言、正二位。
後醍醐天皇が東宮の時から側近にあり、即位後の討幕計画にも参画。
元弘1年=元徳3年(1331年)の元弘の乱には天皇に従って笠置山に逃れたが、有王山で捕えられ、翌年、常陸に流された。
建武政権樹立とともに帰京し、洞院実世に次いで恩賞方筆頭となった。
しかし、公武の争いと行賞についての私曲が横行したので出仕をやめ、建武1年(1134年)、天皇が政を顧みないのを諫めて岩倉で出家。
その後の動静は明らかでない。
如何でしたか?
また、平重盛のような偉大な父を持つ2代目は苦労している印象があります。
最後までお読み頂き有難う御座いました!