こんにちは!
今日は、伊藤四天王について紹介したいと思います!
伊藤四天王とは、伊藤博文の側近である4人です。
伊藤四天王に選ばれたのは、
井上毅(いのうえこわし)
金子堅太郎
末松謙澄(すえまつけんちょう)
伊東巳代治(いとうみよじ)
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
井上毅とは、官僚政治家。
枢密顧問官、文部大臣を歴任。
熊本藩の陪臣の出身。
生家は飯田氏、権五兵衛の3男。
幼名多久馬、慶応1年(1865年)、井上家の養子となる。
同5年、司法卿江藤新平の渡欧随行員として、川路利良と共にヨーロッパに派遣され(江藤は渡欧せず)、G.ボアソナードを知った。
帰国後法律制定や制度改革に関して伊藤博文のブレーンとなる。
特に大日本帝国憲法制定にあたっては、H.ロエスレル等、御雇外国人の助言を得つつ、その骨格を起案した。
また、教育勅語案文の作成をはじめ、重要案件の起草、意見書の提出等、明治中期の重要問題の殆どに参画。
この意味から井上を「明治国家のイデオローグ」と呼ぶことができよう。
金子堅太郎
金子堅太郎とは、官僚政治家。
福岡藩下級士族出身。
明治4年(1871年)より 1878年までハーバード大学で法律学を専攻。
帰国後、元老院書記官。
1885年、伊藤内閣の総理大臣秘書官となった。
また、内閣制度の創設、貴族院令起草等、近代法制の整備に貢献した。
憲法制定後は、1898年、第2次伊藤内閣農商務相、1900年、司法相を歴任。
立憲政友会創立委員の他、日露戦争期には派米使節として日本外交の有利な展開に努めた。
末松謙澄
末松謙澄とは、評論家、政治家。
文学、法学博士。
子爵。
幼時から漢学、詩を学び、明治4年(1871年)、上京、東京日日新聞社に入社、伊藤博文の知遇を得て官界に入った。
西南戦争に従軍中、西郷隆盛にあてた降伏勧告状は一代の名文と言われた。
1886年、イギリス留学から帰国、逓信大臣、内務大臣、枢密顧問官を歴任。
「演劇改良会」を組織し演劇の欧化改良を推進した。
主著、イギリスの女流作家クレイの翻訳小説『谷間の姫百合』(1888~1990年)、歌論集『国歌新論』(1897年)等。
伊東巳代治
伊東巳代治とは、政治家、伯爵。
1883年、伊藤博文の憲法調査研究の渡欧に随行し、1888年の明治憲法草案起草を助けた。
1889年、枢密院書記官長、1898年、第3次伊藤内閣の農商務相、1899年、枢密顧問官を歴任。
東京日日新聞社長も務めた。
如何でしたか?
大日本帝国憲法を起草した3人に加え、末松謙澄が加わっていますね。
伊藤博文もこのような側近に支えられ、様々な改革を行うことができたのですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!