こんにちは!
今日は、護憲三派について紹介したいと思います!
護憲三派とは、第二次護憲運動を起こした3つの政党のことです。
護憲三派に選ばれたのは、
憲政会
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
立憲政友会とは、日本の政党。
1900年9月15日に結成。
40年間に渡り、近代日本政治史に重要な位置を占めた。
初期議会及び、日清戦争以後の帝国議会の状況は帝国党、憲政本党及び憲政党の3党派を主とした鼎立状態にあった。
しかしこれに対し、超然内閣で臨む従来の藩閥政治の形態は、既に日清戦争後の衆議院議員選挙の有権者の飛躍的増大という変化も加わり、議会運営の限界に達していた。
この状況を見て藩閥政治の一方の担い手である伊藤博文は遂に議会にその支持基盤を求めるに至った。
1900年6月1日、憲政党総務星亨が伊藤に同党党首就任を求めたが、同7月8日、伊藤はこれを拒否し、新政党結成の考えを漏らした。
これを受けて星は同8月23日、伊藤に対し憲政党が伊藤の新党に無条件で参加することを申し入れた。
伊藤はこれを受け、同25日、尾崎行雄らを交えた立憲政友会創立委員会を開き、立党の宣言及び趣意書を発表した。
これに応じて憲政党は同9月13日、臨時大会を開き解党を宣言。
同14日、旧憲政党員が入会手続を取り、翌日、藩閥政府の与党としての立憲政友会の結成をみた。
伊藤による立党宣言には、(1)憲法の遵守、(2)皇室への忠誠、(3)教育制度の完備、(4)外交、経済政策の重視、(5)国家に対する政党の責任等が謳われていたが、政党内閣、議会政治の確立については全然触れられていなかった。
これはこの党の体質ともいうべきもので、政党政治については原敬による日本最初の政党内閣樹立にも関わらず、第1次、第2次憲政擁護運動でも他党に比べ遥かに消極的であった。
1901年の桂内閣成立を巡り、1903年、尾崎らが脱会した騒ぎを皮切りに、1913年、山本権兵衛内閣成立時の脱会、1924年、清浦奎吾内閣成立時に床次竹二郎、元田肇ら過半数の代議士が脱会、政友本党を組織する等、再三に渡って分裂を繰り返した。
1932年の五・一五事件以後、久原房之助、中島知久平ら幹部間の対立抗争が激化、軍部の圧力も加わって1940年7月、解党した。
憲政会
憲政会とは、日本の政党。
1916年10月10日、藩閥官僚政治に対抗して政党政治を確立しようと、立憲同志会、中正会、公友倶楽部の一部が合同して結成。
同志会の加藤高明が初代総裁。
1924年に立憲政友会、革新倶楽部とともに野党3派で所謂「護憲三派」を結成、この年の総選挙で第1党になり、3派による加藤内閣を生んだ (護憲三派内閣) 。
1925年、加藤首相の病死により、若槻内閣を組閣。
1927年、若槻内閣が倒れ、政友本党と合同して立憲民政党に代わった。
革新倶楽部とは、日本の政党。
立憲国民党の後身として、犬養毅、尾崎行雄、島田三郎らによって、1922年11月8日に結成された。
立憲政友会、憲政会とともに第2次護憲運動の為に活動。
1925年5月10日、その総会において政友会との合同を決定して解散し、尾崎行雄ら合同反対派は同30日、新正倶楽部を組織した。
如何でしたか?
日本史を勉強したことある方にとっては、懐かしいのではないでしょうか?
清浦奎吾内閣を倒し、政党内閣が続くきっかけを作りましたね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!