こんにちは!
今日は、日本の内閣総理大臣の就任時年齢の年少ベスト3について紹介したいと思います!
日本の内閣総理大臣の就任時年齢の年少ベスト3とは、
1位:伊藤博文
2位:近衛文麿
3位:黒田清隆
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
伊藤博文とは、明治の政治家。
内閣総理大臣(首相。在任1885~1888年、1892~1896年、1898年1~6月、1900~1901年)。
幼名利助、後に俊輔。
明治維新後、博文に改めた。
農民の子として生まれたが、父が長州藩の中間伊藤直右衛門の養子となった為、下級武士の身分を得た。
吉田松陰に学んで尊王攘夷論者となるが、文久3年(1863年)、密航してイギリスに渡り、開国論者となって帰国し倒幕運動に参加。
慶応3年(1867年)12月、王政復古の大号令が発せられて幕府が廃止されると、新政府のもとで改革に取り組んだ。
1885年、近代的内閣制度樹立を進め、初代内閣総理大臣に就任。
同月、内閣総理大臣を辞任し、枢密院議長となり、1889年に大日本帝国憲法発布。
木戸、大久保、西郷隆盛らの亡き後、黒田清隆、松方正義、山県有朋と共に明治政府の中心的存在となった。
1905年、日露戦争後に初代韓国統監に任命されると日韓併合を工作し、1909年に統監を辞任して枢密院議長に転じた。
同1909年、極東問題についてロシアと会談する為、中国東北部のハルビンに赴き、ハルビン駅頭で日韓併合に反対する韓国青年安重根に暗殺された。
近衛文麿とは、政治家。
公爵。
内閣総理大臣(1937~1939年、1940~1941年)。
1916年、貴族院議員となり、翌1917年に京都帝国大学法科を卒業。
1931年、貴族院副議長、1933年、同議長となる。
1937年、第1次内閣を組閣。
内閣成立1ヶ月後に盧溝橋事件が勃発、不拡大方針の声明を出したが、杉山元陸軍大臣を抑えることができず、戦火が上海に広がり、日中戦争に拡大した。
南京占領後、和平交渉を行うが失敗、1938年、「国民政府を相手にせず」の近衛声明を発表し和平の道を閉ざした。
議会で国家総動員法案、電力国家管理法案が成立、内閣改造を行って宇垣一成、池田成彬を入閣させ内閣の強化を図るが、1938年11月、東亜新秩序声明、12月、日華国交調整大綱を発表、汪兆銘が重慶を脱出したのを機に総辞職した。新体制運動、新党作りを目指すが、1940年、第2次内閣を組織、武力南進方針の採用、日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の創立等、ファシズム体制の樹立を図った。
1941年、日米交渉の開始後、松岡洋右外務大臣が対ソ宣戦、対米譲歩反対を唱えた為、総辞職。
同年7月、第3次内閣を組織。
南部仏印進駐で交渉が行き詰まり、中国からの撤兵問題で東条英機陸相と対立して、10月に総辞職した。
1945年、東条内閣の打倒と戦争の早期終結を図る為、上奏文を提出、敗戦直後の東久邇稔彦内閣に国務大臣として入閣、次いで内大臣府御用掛となり、憲法改正案の起草にあたった。
しかし、戦犯容疑者として連合国総司令部 GHQから出頭命令を受け、服毒自殺を遂げた。
黒田清隆とは、明治の政治家。
薩摩藩士。
薩英戦争、戊辰戦争、及び箱館征討参謀として五稜郭の戦いに参加。
榎本武揚助命に働いたのは著名。
明治2年(1869年)、外務権大丞。
同3年、北海道開拓使次官、1874~1881年、参議兼北海道開拓使長官。
1875年、樺太=千島交換条約が締結された。
同年、特命全権弁理大臣として朝鮮で江華島事件の処理にあたり、1876年、日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。
1877年、西南戦争に征討参軍として参加。
1881年、開拓使官有物払い下げ問題を大隈重信により非難され、辞任。
1887年、第1次伊藤博文内閣の農商務相。
1888年、内閣を組織、1889年2月、首相として大日本帝国憲法の発布にあたった。
1892~1896年、第2次伊藤内閣の逓信相。
1895年、枢密院議長。
如何でしたか?
初代総理大臣が1番若いようですね。
3人とも戦前のため、戦後の総理大臣は少し年齢が高いのですね。
この先、若い総理大臣が登場するのも楽しみですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!