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江戸後期の三名君って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、江戸後期の三名君について紹介したいと思います!

 

江戸後期の三名君に選ばれたのは、

伊達宗城(伊予宇和島藩主)

松平慶永(越前福井藩主)

山内豊信(土佐高知藩主)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

伊達宗城

 

 

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伊達宗城とは、幕末の宇和島藩主で明治新政府高官。

旗本山口直勝の次男。

文政12年(1829年)、宇和島藩主伊達宗紀の養嗣子となり、弘化1年(1844年)、藩主襲封。

将軍継嗣問題で安政5年(1858年)、藩主を退いてからも幕政参与として公武合体を提唱し、列国代表をも接見した。

明治新政府成立とともに議定に任じられ、以後、外国事務総督、外国官知事等を歴任。

明治2年(1869年)7月、民部兼大蔵卿に就任。

同4年4月には欽差全権大臣として清国に赴き、対等の修好条約を結んだ。

 

 

 

 

 

松平慶永

 

 

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松平慶永とは、幕末の越前藩主。

越前守。

号は春嶽。

田安斉匡の6男。

天保9年(1838年)、松平斉善の嗣子となり越前藩主を襲封。

藩政改革の為、橋本左内由利公正らを重用し、殖産興業に成功し、種痘等、洋式技術の導入にも努めた。

ペリー来航の際には、攘夷論を提唱、条約無断調印に反対。

また、将軍継嗣に一橋慶喜を推して大老井伊直弼と対立し、安政の大獄では謹慎処分を受けた。

桜田門外の変後に許され、文久2年(1862年)、政事総裁。

参勤交代の旧習を緩和する等、一橋慶喜と共に幕政改革に尽力。

後に朝議参与、京都守護職を歴任。

王政復古前後には討幕派と対抗して土佐藩山内豊信らと共に将軍の朝政参与を主張。

新政府成立後、議定、民部卿、大蔵卿。

16歳の時から書き続けられた日記 (『松平春嶽全集』4巻)を残す。

 

 

 

 

 

山内豊信

 

 

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山内豊信とは、幕末の土佐藩主。

第10代藩主である豊策の5男、豊著の子。

号は容堂。

嘉永1年(1848年)11月、襲封。

第14代藩主となる。

識見が広く人材を登用して名君の聞こえが高く、明治維新の序幕をなす大政奉還の演出者として著名。

将軍継嗣問題では一橋慶喜を擁して処罰を受け、藩主を豊範に譲った。

文久2年(1862年)、公武合体の趨勢の中で、松平慶永らと共に幕政参与を委嘱され、朝幕間の斡旋に努めた。

慶応3年(1867年)、薩長両藩による倒幕の動きが強まると、坂本龍馬らの建策に従い、いち早く将軍慶喜大政奉還を説いて実現させ、次いで王政復古に際しては議定として公議政体論を唱え、徳川氏処罰に反対した。

明治政府では内国事務総裁を務め、明治2年(1869年)、病にかかり辞官した。

詩や書を良くし、「鯨海酔侯」「九十九洋外史」等の雅号を持った。

なお、土佐ではやまのうちと呼ばず、やまうちと呼ぶ。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

幕末を舞台にした大河ドラマでは、度々登場する3人です。

個人的には、『龍馬伝』で近藤正臣が演じた山内豊信が印象に残ってきます。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!