いつか役に立つかもしれないムダ知識

生きていく上では必要ではない雑学や知識を投稿していきます。クイズなどにも役立つかもしれません。

寛永の三筆って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、寛永の三筆について紹介したいと思います!

 

寛永の三筆に選ばれたのは、

本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)

近衛信尹(このえのぶただ)

松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

本阿弥光悦

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210324070657j:image

 

 

本阿弥光悦とは、安土桃山~江戸時代初期の芸術家。

本阿弥光二の長男。

通称は次郎三郎、後に光悦。

号は自得斎、徳有斎、太虚庵。

家業の刀剣の研磨、鑑定は勿論、書、製陶、蒔絵、茶道等にも精通した。

書は独自の光悦流を創始し、俵屋宗達等に下絵を描かせた料紙との調和美を誇る和歌を多く書き、近衛信尹松花堂昭乗と共に寛永の三筆と称された。

製陶では国宝の『楽焼白片身替茶碗』(銘、不二山)、『楽焼黒茶碗』(銘,雨雲)をはじめ、楽焼茶碗に傑作を残した。

蒔絵は古典に主題を求めたものが多く、鉛、錫、青貝を使用した国宝『舟橋蒔絵硯箱』(東京国立博物館)が代表作。

また、角倉素庵らと共に、豪華な平仮名活字本の謡曲「嵯峨本」を刊行した。

茶道は初め古田織部を師としたが、後に武野紹鴎系統の佗茶に傾倒した。

絵画、彫刻には確証ある遺品は無い。

元和1年(1615年)、徳川家康から洛北の鷹ヶ峰の敷地を与えられ、一族、配下の工芸家を集めて芸術村を作った。

彼の行状を孫の光甫が『本阿弥行状記』に纏めている。

 

 

 

 

 

近衛信尹

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210324070752j:image

 

 

近衛信尹とは、江戸時代初期の公家、書家。

太政大臣近衛前久の子。

初名は信基、後に信輔、更に信尹と改めた。

従一位左大臣近衛大将

文禄2年(1592年)、薩摩国に配流されたが、慶長1年(1596年)、赦免されて帰京。

出家して法名は三藐院。

和歌、連歌、書画に長じ、特に書は本阿弥光悦松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」と称され、近衛流(三藐院流)を完成した。

書風は筆当たりがきつく、癖の多い男性的な物で、低俗化していた当時の和様書道界に清新の気を与え、一般的にも多くの流布を見た。

主要作品『三藐院記』『初瀬山屏風絵賛』等。

 

 

 

 

 

松花堂昭乗

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210324070827j:image

 

 

松花堂昭乗とは、江戸時代初期の学僧、書家、画家、文人、茶人。

名は式部。

摂津の喜多川氏の出であるというが、詳細は不明。

慶長5年(1600年)、山城国石清水八幡宮の滝本坊実乗の元で社僧となり、昭乗と称して仏法を修めた。

実乗の死後は住職となったが、その座を弟子に譲り、慶長14年(1609年)以後は滝本坊の南に松花堂と名付ける隠居所を設けて移り、自らも松花堂と称した。

書は初め御家流を学び、次いで空海の大師流を研究、後に滝本流または松花堂流と呼ばれる流儀を完成し、本阿弥光悦近衛信尹と並ぶ「寛永の三筆」の1人として名声を得た。

絵は狩野山楽に師事したと伝えられ、更に牧谿や因陀羅に私淑して花鳥画、人物画を得意とした。

茶の湯小堀遠州との交歓によって修め、共に茶の湯芸術の完成に貢献した。

書画の主要遺品『和漢朗詠集』(京都国立博物館)、『三十六歌仙色紙帖』(東京国立博物館)、『僧形八幡像』(1639年、石清水八幡宮)、『月自画賛』等。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

本阿弥光悦は、日本史の寛永文化史に登場しますね。

近衛信尹は、2020年の大河ドラマ麒麟がくる』に登場した近衛前久の子であることは、初めて知りました。

文化史についても、理解を深めていきたいと思いました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!