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江戸の三大刑場って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、江戸の三大刑場について紹介したいと思います!

 

江戸の三大刑場に選ばれたのは、

小塚原刑場

鈴ヶ森刑場

大和田刑場

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

小塚原刑場

 

 

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小塚原刑場とは、江戸時代から明治初期にかけて存在した刑場である。

小塚原の地名は古塚原、また骨ヶ原とも言う。

小塚原刑場は、慶安4年(1651年)に千住大橋南側の小塚原町に創設された。

現在の東京都荒川区南千住2丁目に相当する。

小塚原町は万治3年(1660年)に千住宿に加えられた。

江戸時代の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)、西に大和田刑場(八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があり、三大刑場と言われた。

刑場の広さは間口60間(108m)、奥行30間余り(54m)程であった。

小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が執行された。

小塚原刑場では腑分けも行われた。

腑分けが行われたのは小伝馬町牢屋敷(日本橋小伝馬町)と小塚原刑場であったと言う。

死体はそのまま野さらしとされたり、丁寧に埋葬せずに申し訳程度に土を被せるのみで、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬や鼬の類が食い散らかして地獄のような有様だったと言う。

また、使われる刀剣の試験場(当時は「おためし場」といった)であった。

寛文9年(1699年)には、下谷浅草の各宗派寺院内にあった五三昧(火葬寺)19の寺が小塚原に移転し、19世紀初頭には、江戸の北の一大火葬埋葬場となった。

寛保元年(1741年)には、首切地蔵(高さ3m程)が建てられた。

明治6年1873年)7月には、欧米と対等の人権基準を設ける必要に迫られた新政府が小塚原刑場を廃止した。

小塚原刑場では、創設から廃止までの間に合計で20万人以上の罪人の刑が執行されたと言う。

 

 

 

 

 

鈴ヶ森刑場

 

 

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鈴ヶ森刑場とは、東京都品川区南大井にかつて存在した刑場。

江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた刑場であった。

元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があった為、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったと言う。

1615年(慶長20年)に高輪大木戸近くに開設された芝高輪刑場、芝口門(札ノ辻)に作られた芝口札ノ辻刑場が、手狭になった為、1651年(慶安4年)開設される。

1695年(元禄8年)測量された検地では、間口40間(74m)、奥行9間(16.2m)、であったと言う。

1871年明治4年)閉鎖される。

220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。

当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている。

当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、刑場設置当時浪人が増加し、それに伴い浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、特に浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている。

最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安の変の首謀者の1人の丸橋忠弥であるとされている。

反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされた。

その後も、平井権八天一坊、八百屋お七といった人物がここで処刑された。

 

 

 

 

 

大和田刑場

 

 

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大和田刑場とは、東京都八王子市にあった刑場。

八王子市大和田町大和田橋北詰付近の浅川河原に位置していた。

刑場跡地には工場が建設され操業していたが、事故が相次いだことから1954年(昭和29年)に大和田刑場跡の慰霊碑を建立した。

その後、工場は閉鎖された。

慰霊碑は撤去され現存せず、往時を偲ぶ物は何も無い。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

江戸の町にもこのような刑場があったのですね。

今の東京にこのような場所があったのは、少々意外かもしれないですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!