こんにちは!
今日は、日本三大怨霊について紹介したいと思います!
日本三大怨霊とは、日本に数多伝わる怨霊の中でも特定の3人を指す呼称です。
日本三大怨霊に選ばれたのは、
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
是善の子。
母は伴氏。
右大臣。
従二位。
大宰権帥。
菅公と言われる。
貞観4年(862年)、文章生。
同 19年、文章博士。
寛平3年(891年)、蔵人頭。
同6年、遣唐大使となったが、彼の意思によって中止された。
その後、権大納言を経て昌泰2年(899年)、右大臣となったが、同4年、藤原時平の為に大宰府に左遷された。
編書『日本三代実録』『類聚国史』、詩文書『菅家文草』『菅家後集』がある。
後世、天神として尊崇された。
鎮守府将軍良将の子。
上京して藤原忠平に仕えたが、官途を得ず下総に帰った。
前常陸大掾源護と争い、これに味方した叔父国香を殺し、国香の子貞盛に攻められたが、これを打ち破った。
後に常陸国府を焼き打ちし、下野、上野の国府を攻略して、新皇と号し、下総に王城を営み、文武百官を任命した。
朝廷では、征東大将軍藤原忠文に討伐させたが、その軍の到着以前に、下野押領使藤原秀郷の助けを得た貞盛に殺された。
死後、その霊は神田明神の将門社(東京都千代田区)に祀られた。
崇徳天皇とは、第 75代の天皇(在位 1123~1141年)。
名は顕仁。
保安4年(1123年)、即位したが、白河法皇、次いで鳥羽上皇が院政を採った。
鳥羽上皇は永治1年(1141年)、崇徳天皇を退位させて寵妃美福門院藤原得子の子である体仁 親王を近衛天皇とし、鳥羽法皇を本院、崇徳上皇を新院と称し、政令は本院から出した。
久寿2年(1155年)、近衛天皇が崩御すると、上皇はその子重仁親王を推したが、美福門院が鳥羽法皇を図って上皇の弟の後白河天皇を立てた。
この為、保元1年(1156年)、法皇の死を機として上皇は、左大臣藤原頼長らと図り後白河天皇を襲ったが、敗れて讃岐に流された。
如何でしたか?
この中だと崇徳天皇が少しマイナーかもしれませんね。
個人的には、大河ドラマ『平清盛』で井浦新が演じていた崇徳天皇が印象に残っています。
最後までお読み頂き有難う御座いました!