こんにちは!
今日は、三英傑について紹介したいと思います!
三英傑に選ばれたのは、
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
織田信長とは、戦国時代の武将。
信秀の子。
幼名吉法師または三郎。
元服して信長。
天文 20 (1551) 年父信秀が没して家督を相続して以来、一族内部の抗争に奔走、永禄2 (1559) 年には岩倉城の織田信賢を破り、尾張一国を統一、次いで駿河の今川義元を桶狭間で奇襲して敗死させた (桶狭間の戦い) 。
そののち三河の徳川家康と同盟して後顧の憂いを除き、美濃に進出を企て、永禄 10 (1567) 年斎藤龍興を滅ぼして美濃をくだし、稲葉山城を岐阜と改名して、尾張清洲より移った。
翌 11年足利義昭を奉じて上洛、義昭を将軍職につけたが、のち義昭が信長の勢力拡大を喜ばなかったため元亀2 (1571) 年信長は義昭に内通していた比叡山の焼き打ちを決行した。
天正1 (1573) 年には朝倉氏、さらに浅井氏を滅ぼし、義昭を河内に追放して室町幕府を滅亡させ、天正3 (1575) 年、武田勝頼を三河長篠にて破り (長篠の戦い) 、翌年には近江安土に築城した (安土城) 。
やがて中国経略を志して毛利氏と対立したが、一方では石山本願寺を降伏させて畿内一円を支配。
天正 10 (1582) 年には甲斐武田氏を滅ぼし、信濃の北口を平定。
しかし同年6月2日、本能寺の変で明智光秀に攻められ自害し、その統一事業は中絶した。
通称十兵衛。
天正3 (1575) 年九州の旧族惟任の称号を与えられ日向守。
父は光綱。
その前身は判然としないが、美濃の土岐氏の支流といわれ、また美濃明智荘に居住し明智と称したという。
初め斎藤氏に仕え、流浪ののち永禄9 (1566) 年織田信長に仕えた。
翌年、滝川一益に従い北国征伐に参加し、信長上洛に際しては村井貞勝らとともに京都の政務にあたり、信長の信任を受けた。
元亀2 (1571) 年、若狭平定の軍功により、近江坂本城主となり、滋賀郡を領した。
のち朝倉氏が滅亡し、越前が平定されると、柴田勝家らと同国の経営を行い、天正5年には信長の命で丹波に進撃して、丹波経略に尽力した。
その後も荒木村重、松永久秀の反乱や紀伊雑賀の一向一揆、また武田勝頼征伐などの諸戦に従軍。
同 10年信長より徳川家康の功をねぎらうための接待役を命じられたが、その準備なかばで、さらに羽柴秀吉への援軍を命じられ、憤激して帰国し、丹波亀山城から兵を整え上洛し、6月2日信長を本能寺で討つにいたった (本能寺の変) 。
しかしその後の収拾策は遅滞し、光秀謀反に中国路より転進して上洛する羽柴秀吉に対して、味方と頼んだ蒲生秀賢、細川忠興、筒井順慶らはいずれも参陣せず、京畿地方の人心の収攬も成功しないまま、13日山崎の戦いで秀吉に大敗、近江坂本に帰る途中、小栗栖 (おぐるす) で殺害された。
幼名、日吉丸。
今川氏の臣松下加兵衛、次いで織田信長に仕え、天正1 (1573) 年近江長浜城主となる。
この頃羽柴と改姓、同5年中国征伐の将として毛利氏と対戦。
本能寺の変後、明智光秀を討ち、同 11年柴田勝家を滅ぼし、同 12年徳川家康を服従させ、同 13年四国、同 15年九州、同 18年関東、奥羽を平定し天下統一をなしとげた。
その間、同 13年関白となり、同 14年豊臣の姓を賜わり太政大臣となった。
文禄・慶長の役 (1592~98) を起こして朝鮮に出兵したが失敗し、戦役中に没した。
太閤検地、刀狩は有名。
徳川家康とは、江戸幕府初代将軍 (在職 1603~05) 。
母は水野右衛門大夫忠政の娘。
幼名は竹千代、初名を元信、のち元康といった。
院号は安国院。
織田信秀、次いで今川義元の人質となったが、永禄3 (1560) 年義元が桶狭間の戦いで敗死すると、岡崎に帰り、織田信長とも親交を結び戦国大名として成長。
豊臣秀吉の天下統一に協力、五大老の筆頭として重きをなしたが、秀吉の死後、石田三成と反目して慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いに三成を破って、天下の覇権を握った。
慶長8 (1603) 年2月 12日征夷大将軍宣下。
同 10年将軍職を子秀忠に譲って大御所として駿河に引退したが、なお幕政を後見した。
大坂冬・夏の陣 (大坂の陣) で豊臣氏を滅ぼし、幕府の基礎を築いた。
元和2 (16) 年3月太政大臣となる。
如何でしたか?
戦国時代と言えばという質問で上位に来る3人ですね。
今年の大河ドラマ『麒麟がくる』でも登場していて、話題になっていますね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!