こんにちは!
今日は、漢の三傑について紹介したいと思います!
漢の三傑とは、前漢の高祖劉邦に仕えた功臣のうち、特に功績の大きかった3人のことです。
漢の三傑に選ばれたのは、
蕭何(しょうか)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
蕭何
蕭何とは、中国古代の政治家。
前漢朝高祖劉邦(りゅうほう)の最初からの臣で、劉邦と同郷の沛(はい)の豊邑(ほうゆう)(江蘇(こうそ)省豊県)の生まれ。
初め秦(しん)の沛県の主吏掾(しゅりえん)という下級官吏で、有能だったらしい。
劉邦が一農民だった頃から援助しており、後、劉邦が役目がら首都咸陽(かんよう)へ行った時、他の者より多くの餞別(せんべつ)を出したことは劉邦にとって終生忘れがたいことであったようだ。
劉邦の起兵後はその参謀として一族をあげて加わり、武人としてよりも民政官として活躍、劉邦の窮地をしばしば救った。
劉邦が天下を平定すると功臣中第一に推され酇侯(さんこう)に封ぜられ、やがて丞相(じょうしょう)から相国となった。
秦軍との抗争中、都の咸陽城を落とした漢軍の諸将が金銀を争奪したのに、彼ひとり秦の記録文書を収め、それによって劉邦が天下の形勢をよく知りえたのは有名である。
祖父、父は韓(かん)王の宰相であり、韓の貴族の家に生まれる。
紀元前230年、韓が秦(しん)に滅ぼされると、韓のために家財を費やして始皇帝の暗殺を企てるが、失敗して下邳(かひ)(江蘇(こうそ)省)の地に逃れた。
後に沛公(はいこう)劉邦が挙兵すると、逃亡中に橋上で会った老父から学んだ太公望の兵法を説いて従い、影の画策者として沛公軍を支えた。
項羽(こうう)との「鴻門(こうもん)の会」において沛公を危急から救ったことはよく知られている。
その後、留侯に封ぜられ、沃野(よくや)千里の要害の地である関中に都を置くことを献策する。
司馬遷(しばせん)の『史記』には、蕭何(しょうか)、曹参(そうさん)、陳平、周勃(しゅうぼつ)らと共に開国の功臣として別格に扱われ、諸侯の系譜を述べた「世家(せいか)」に伝記が収められている。
軍略に長けた武将。
淮陰(わいいん)(江蘇(こうそ)省)の貧家に生まれ、母親の葬儀も出せなかった。
ある日城下で釣りをしていた時、近くで洗い物をしていた老女が彼の飢えを見かねて食を与え、そのまま寄食すること数十日。
いつの日かこの恩に報いるといったところ、自分で食えずにいて何が報恩だと叱(しか)り飛ばされた。
また、町中で馬鹿にされながらも一時の恥を忍んで無頼者の股(また)の下を潜ったという。
これらの若いころの逸話は、いずれも彼の大志あるを窺わせるものである。
秦(しん)末の乱に際し、初め項羽(こうう)陣営に属したが、不遇を不満として劉邦に仕えようとした。
その際危うく斬(き)られそうになったが、重臣夏侯嬰(かこうえい)に見出されて救われ、更に丞相(じょうしょう)蕭何(しょうか)の推薦でやがて大将となり、項羽討滅の策を次々と献じ、劉邦をして、もっと早くこの男を幕下に入れたかったと言わしめた。
紀元前206年、項羽の都彭城(ほうじょう)を襲った劉邦が危機に陥るやそれを救い、ついで趙(ちょう)、斉(せい)の地を攻略して黄河下流一帯を確保し、漢を優勢たらしめ、斉王に封ぜられた。
漢の天下統一が達成されると、異姓の諸王を廃除しようとする劉邦の政策にあい、また、陛下はせいぜい10万の兵の将だが、自分は多々ますます弁ず(多ければ多いほどよい)と豪語した有能さが災いし、しだいに悲劇的な晩年になってゆく。
楚(そ)王に移され、次には反逆の疑いで淮陰侯に落とされ、前196年、呂后(りょこう)の謀計にかかって捕らわれ、一族諸共滅ぼされた。
如何でしたか?
三国志は有名ですが、漢の歴史もまた面白いですね。
『キングダム』で扱われた始皇帝と三国志の間の時代なので、詳しくなると、繋がりが分かるかもしれないですね。
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