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イタリア統一三傑って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、イタリア統一三傑について紹介したいと思います!

イタリア統一三傑とは、イタリア統一に功績が大きかった3人のことです。

 

イタリア統一三傑に選ばれたのは、

カヴール

ガリバルディ

マッツィーニ

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

カヴール

 

 

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カヴールとは、イタリアの政治家。

イタリア王国の第1代首相。

ピエモンテの名門貴族出身。

トリノ士官学校を卒業したが、自由主義思想を抱いて1831年軍役を退く。

フランスとイギリスへの旅に出て自由主義経済と議会主義に深い確信をもって帰国し、広大な領地に資本主義的大農場経営を導入して農業改革に努め、工業化の課題に取り組むため銀行設立、鉄道敷設の事業を熱心に進めた。

47年"Il Risorgimento"紙を創刊して政治的並びに経済的な自由主義の主張を掲げ、48年新たに開設されたサルジニア王国議会の議員となり政治活動に足を踏み入れた。

中道右派の立場に立って M.アゼリオ内閣で 50年農商工相、51年財務相を務め、中道左派の指導者 U.ラタッツィと連合を結び、52年自ら首相の地位を得た。

以後 59年7月まで産業振興策を積極的に推進し、自由貿易主義の見地に立つ低関税政策と英仏両国との通商拡大、金融・信用制度の充実などを果たした。

その自由主義的政策はイタリア各国の亡命者をひきつけて、ピエモンテリソルジメント運動の中心地とする効果をもたらした。

外交政策では、1858年ナポレオン3世とプロンビエルの密約を結んでオーストリアに対する独立戦争の準備を進めた。

59年戦端が開かれて勝利の見通しが強まった時、突如としてビラフランカの和議がなされたため、これに抗議して同年7月首相を辞任した。

しかし 60年1月に復帰して、3月中部イタリアの併合に成功、続いてシチリアナポリに遠征した G.ガリバルディと対抗しつつ 10月に南イタリアを併合、イタリアの統一と独立に貢献した。

61年3月イタリア王国の成立が宣言されて初代首相に任じられたが、山積する課題を残して6月に急死した。

 

 

 

 

 

ガリバルディ

 

 

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ガリバルディとは、イタリアの愛国者、ゲリラ戦指導者。

青年時代に G.マッツィーニの指導する青年イタリアに加盟して、国家統一運動を推進。

1834年ジェノバ港で民衆革命を起こそうとしたが、発覚したため亡命し、欠席裁判で死刑の宣告を受けた。

36~48年南アメリカで亡命生活を送り、そこでゲリラ戦を身につけた。

48年革命の際イタリアに戻り、49年のローマ共和国防衛戦を指揮して名をあげ、ローマ陥落後は、イタリア各地を転戦し、再びアメリカ合衆国に亡命した。

54年帰国を許され、60年 C.カヴールの政策に反対して義勇軍 (赤シャツ千人隊) を組織し、シチリア南イタリアに渡り、独裁政権を樹立。

しかしサルジニア王国軍が進攻してきたため、シチリア南イタリアをビットリオ・エマヌエレ2世に献上して、自らはカプレラ島に隠遁。

その後、62、67年と数度に渡って兵を起こし、ベネチアとローマの奪回を試み、また 70年の普仏戦争に際しても、義勇軍を率いてフランス軍に参加、その名をあげ、フランス国民議会の1員に選出された。

74年イタリア議会議員となり、その2年後公職生活から引退した。

 

 

 

 

 

マッツィーニ

 

 

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マッツィーニとは、イタリアのリソルジメント運動推進者、共和主義者。

1827年「カルボナリ結社」に加盟、30年逮捕、投獄されて翌年国外追放。

31年秋亡命地のマルセイユでイタリア統一を目指す行動的結社「青年イタリア」を結成。

ゲリラ的な蜂起活動を運動形態として、この後幾度か蜂起計画を試みるが全て失敗に終わった。

思想的にはサン=シモンの進歩観と協同社会論を受け入れ、平等主義に立って社会革命を唱える老陰謀家 F.ブォナローティと対立した。

34年「青年イタリア」を国際的に拡大した「青年ヨーロッパ」を結成して、ナショナリズムの理論を練り上げ、37年ロンドンに移ってチャーティスト運動に接し、この経験から労働運動の重要性を認識した。

48年ミラノ革命に加わるためイタリアに戻り、49年ローマ共和国の成立とともに首長の1人に選ばれた。

この 48~49年革命の中で社会革命を否定して国家統一を最優先の目標に掲げ、統一運動と社会革命の結合を主張する G.フェラリや C.ピサカーネと対立した。

革命敗北後再びロンドンに亡命、50年ルドリュ・ロランらとヨーロッパ民主中央委員会を結成する傍ら、イタリア国内の運動準備にも精力的に取り組み、53年行動党を設立。

57年ピサカーネの南イタリア遠征に呼応してジェノバで蜂起を試みるが失敗。

59~60年のリソルジメント運動の最終局面では主導権を C.カヴールに奪われて活躍できず、念願の国家統一も共和制でなく君主制で実現されることになった。

失意のうちにまたロンドンに亡命したが、ここでは 64年国際労働者協会 (第1インターナショナル) の設立を巡ってマルクスと対立した。

70年ローマ奪回と共和制の樹立を求めてイタリアに潜入するが失敗、71年のパリ・コミューンに反対の立場をとって M.バクーニンと論争した。

マッツィーニの生涯は不成功の連続であったが、思想と行動は死後も長く共和主義運動の伝統の中に残された。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

世界史で登場してくる3人ですね。

イタリアという国は、イギリスやフランスとは違った歴史を歩んでいるので、学ぶと面白いかもしれませんね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!