こんにちは!
今日は、三国同盟の三国について紹介したいと思います!
三国同盟の三国に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
ドイツ帝国とは、ドイツが帝制を採った時代の名称。
第1は神聖ローマ帝国、第2はビスマルクのドイツ統一によって成立した帝国である。
ヒトラーはナチスの国家を第三帝国と称したが、これは狭義の帝国では無い。
一般には 1871~1918年のドイツ帝国を指す。
この帝国の国制は、1871年4月公布の「ドイツ帝国憲法」によって定められている。
帝国は22の君主国(王国4、大公国6、公国5、その他7)と3つの自由都市から成る連邦で、各邦はそれぞれ従来の政治制度と法律を持ち、行政権も殆どその手に握っていた。
各邦を代表する連邦参議院が上院、全国民の男子普通選挙による帝国議会が下院を構成したが、連邦参議院がドイツ帝国の事実上の最高機関を成した。
しかし、最大の領域と経済力、軍事力を持つプロシアの権利は極めて大きく、プロシア王はドイツ皇帝を兼ね、帝国宰相を任命し、帝国宰相もプロシア首相がこれを兼ね、しかも帝国宰相は、皇帝に対してのみ責任を持ち、議会には責任を負わなかった。
1918年のドイツ革命によって崩壊。
オーストリア=ハンガリー帝国とは、1867年のアウスグライヒによってオーストリアとハンガリーに成立した帝国(1867~1918年)。
プロシア=オーストリア戦争の結果、ドイツからの敗退によって、オーストリアの国内情勢は急迫し、1867年、フランツ・ヨーゼフ1世の元、オーストリア・ドイツ人はハンガリーのマジャル人貴族と妥協してハンガリー王国の建設を許し、オーストリア皇帝がハンガリー王位を兼ねる同君連合の二重帝国の成立を見た。
以後オーストリアは、産業国として発展する為に、1887年、外見的立憲主義を採用したが、工業化の進歩と国内諸政党の勢力増大の影響の元に、1907年には普通選挙が施行された。
しかも民族問題は、オーストリアにとって依然最大の悩みであり、ドイツ人とスロベニア人、チェコ人との間の抗争が絶えなかったが、政府は議会を停止してこれらの要求に応えようとしなかった。
外交上では、三国同盟の一員として、バルカン半島で汎ゲルマン主義を推進し、その強引な政策は1908年、ボスニア=ヘルツェゴビナ併合となって現れ、ロシアとセルビアの恨みを買った。
次いで1912~1913年のバルカン戦争により国際関係は益々激化、遂に第1次世界大戦を招くに至った。
1918年、軍の敗退と、国内異民族の離反は、オーストリアを単独休戦条約調印に追い込み、同時に革命が起こってハプスブルク家は倒れ、共和制が宣言された。
1919年9月、サンジェルマン条約により、オーストリア=ハンガリー帝国は正式に崩壊して、ハンガリー、チェコスロバキアがそれぞれ独立し、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラビアにも土地を割譲したので、オーストリアは領土も戦前の4分の1の小国となり、軍備制限と多額の賠償義務を負うに至った。
イタリア王国とは、現代イタリアの王国(1861~1946年)。
1859~1860年にイタリア諸国をサルジニア王国に併合する形で国家統一が実現し、1861年3月、ビットリオ・エマヌエレ2世にイタリア国王の称号を与えることで成立。
1866年にベネト、1870年にローマを併合して国家統一をほぼ完成させ、1871年、ローマに遷都。
立憲議会主義の政治制度を採ったが、実際には制限選挙方式による寡頭支配体制であり、また地方自治を認めない中央集権体制であった。
社会的には教皇問題を巡る国家と教会の対立や南部問題と呼ばれる北部による南部収奪等、多くの難題を抱えた。
1876年までは自由主義右派の政権、1876年以降は自由主義左派の政権、20世紀初頭はジョリッティ体制と呼ばれ、第1次世界大戦後の1922年にファシストのローマ進軍によるファシズム政権が発足。
1943年にムッソリーニが失脚して反ファシズム運動が強まり、国王ビットリオ・エマヌエレ3世もファシズムとの連帯責任を問われて、1944年6月、公的生活を退き、皇太子が国王代行となる措置が取られた。
しかし、国民の君主制に対する批判は解消せず、1946年6月の国民投票で共和制支持票が君主制支持票を上回り、イタリア王国はイタリア共和国に移行した。
如何でしたか?
第一次世界大戦で負けたグループですね。
こう見ると、ドイツとイタリアは世界大戦で2度敗戦国になっているのですね。
イタリアは少々ドイツと事情が違い、第一次世界大戦の途中で三国協商に寝返ってた気がします。
最後までお読み頂き有難う御座いました!