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ドイツ統一三傑って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、ドイツ統一三傑について紹介したいと思います!

ドイツ統一三傑とは、ドイツ統一に功績が大きかった3人のことです。

 

ドイツ統一三傑に選ばれたのは、

ビスマルク

モルトケ

ローン

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

ビスマルク

 

 

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ビスマルクとは、ドイツの政治家。

ドイツ第二帝国の建設者。

ユンカーの出身。

ゲッティンゲン大学ベルリン大学で法律を学んだ後、1836年プロシアの官僚となり、47年プロシア連合州議会の議員となり、絶対主義と反動の扇動的代弁者として活躍。

48年の三月革命に対抗。

その後フランクフルト連邦議会プロシア代表、ロシア大使、フランス大使を歴任後、62年9月プロシア首相となった。

軍拡問題で議会と衝突したが、「ドイツ問題は鉄と血によって解決される」という有名な鉄血演説を行って議会を押さえた。

66年プロシアオーストリア戦争に勝ってオーストリアの勢力をドイツから排除、70~71年の普仏戦争の勝利によってドイツの統一を完成し、71年3月ドイツ帝国初代宰相となり、侯爵となった。

その後、特に外交に手腕を発揮して 19世紀末のヨーロッパ外交を操った。

内政においては通貨の統一、中央銀行の創立、統一民・商法典の制定、高等裁判所の設立など抜本的改革を行って、中世的遺制を一掃。

72年末政敵カトリック教徒の中央党を押さえるため、教育の国家管理を巡って文化闘争を引き起こしたが、社会主義勢力の台頭をみて所謂「飴と鞭」政策を取り、社会主義者鎮圧法を制定する一方、社会保障制度などの社会政策を推進した。

経済面では保護関税政策を取ってドイツ工業の育成に努めた。

自己の権力を保持し、政策を推進するためには内政、外交において危機感を煽る策略をしばしば用い、巧みに政治的危機を乗り越えたが、新たに帝位についたウィルヘルム2世とは社会主義者鎮圧法の更新を巡って衝突、90年3月宰相を辞任した。

その後は皇帝の批判と主著『回想録』 Gedanken und Erinnerungen (3巻、1898~1919) の執筆に専念したが、この著は、歴史的には疑わしい記述を含んでいるものの、文学的には優れ、ビスマルクをドイツ1流の著述家の列に加えている。

 

 

 

 

 

モルトケ

 

 

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モルトケとは、ドイツ、プロシアの軍人。

近代ドイツ陸軍の父。

第1次世界大戦当時のドイツ軍参謀総長モルトケ (小モルトケ) に対し、大モルトケと呼ばれる。

コペンハーゲンの陸軍幼年学校で教育を受けた後、デンマーク軍に入隊したが、1822年プロシア軍に入隊。

35年中近東を視察旅行し、そのままトルコ軍顧問となってその再編、近代化に尽くした。

39年帰国、再びプロシア軍に入り、55年フリードリヒ・ウィルヘルム (後のフリードリヒ3世) の副官、58年参謀総長となり軍制改革を推進し、デンマーク戦争 (1864) 、プロシアオーストリア戦争 (66) 、普仏戦争 (70~71) を指導、その優れた戦略・戦術的才能を遺憾なく発揮した。

彼が参謀部に設けた新制度 (総括的作戦指令) は、その後近代化された凡ゆる軍隊が範とするに至った。

88年退役。

謙遜かつ寡黙で、「偉大な沈黙者」と呼ばれ、軍事問題でしばしばビスマルクと衝突はしたが、常に政治を優先させた。

19世紀における最もすぐれた軍事指揮者の1人とされている。

文筆家としても知られ、死後『論文集および回想録』 Gesammelte Schriften und Denkwürdigkeiten (8巻、91~93) 、『書簡集』 Moltkes Briefe (2巻、1922) が刊行された。

 

 

 

 

 

ローン

 

 

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ローンとは、ドイツ、プロシアの軍人、政治家。

ビスマルク、大モルトケとともにドイツ帝国建国の三大支柱の1人。

1816年プロシア軍に入り、59年中将となって軍制改革委員会に加わり、同年末陸相となって、宮中軍事官房長官 E.マントイフェルや参謀総長モルトケの支援を得て軍制改革を推進し、軍の近代化に力を注ぎ、国民の反対を押し切って強制徴兵制度を拡充した。

これらの改革は有名な憲法闘争を引き起こしたが、対オーストリア、対フランスの両戦争におけるプロシア大勝の主因となった。

71年ビスマルクの跡を継いでプロシア首相となったが、病気のため翌年辞任。

73年元帥。

主著は『地理学、民族学および国家学綱要』 Grundzüge der Erd-、Völker-und Staatenkunde (3巻、1847~55) 。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

ビスマルクは、比較的有名ですが、残りの2人は知らなかった方が多いのではないでしょうか?

因みに、私は知りませんでした。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!