いつか役に立つかもしれないムダ知識

生きていく上では必要ではない雑学や知識を投稿していきます。クイズなどにも役立つかもしれません。

五虎大将軍って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、五虎大将軍について紹介したいと思います!

 

五虎大将軍に選ばれたのは、

関羽(かんう」

張飛(ちょうひ)

趙雲(ちょううん)

馬超(ばちょう)

黄忠(こうちゅう)

の5人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

関羽

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210808122310j:image

 

 

関羽とは、中国、三国蜀の武将。

河東解(山西省臨晋県)の人。

字は雲長。

諡は忠義侯。

解には塩池があるから、塩業関係の仕事に従事していたのかもしれない。

亡命して涿郡(河北省)に来て、劉備張飛と知り合った。

桃園で3人が義兄弟の約束を結んだことが小説『三国志演義』に見えるが、それに近いことはあったろう。

劉備が起兵すると羽も参加し、寝食を共にした。

200年、曹操劉備が戦い、備は敗れ、羽は操に捕らえられた。

操は羽を礼遇して帰順を勧めたが、羽は操と袁紹との戦いに、紹の将である顔良の首を斬って、これを置き土産に備の所に帰った。

やがて、備と共に荊州に赴き、曹操が南下して来ると、ここを逃れたが、次いで起こった赤壁の戦い(208年)では、水戦で敗れた操の軍を陸上に待ち受けて撃ち破った。

劉備諸葛亮張飛らと蜀に入った後も、彼は荊州の留守を命ぜられ、江陵を基地とした。

219年、劉備が漢中王になったのを機に、北上して曹操の部将である曹仁を攻めて樊城(河南省襄樊市)を囲んだ。

しかし、荊州領有を目論む孫権が、操と同盟して背後を襲ったので、樊城陥落を目前に南に引き揚げたが、ついに臨沮(湖北省南漳県)において、子の関平と共に戦死した。

 関羽は美しい髯の持ち主で、諸葛亮も彼を髯の愛称で呼んだ。

また、彼は武勇に優れていたばかりでなく、好んで『春秋左氏伝』を読んだ。

しかし、人を見下すことがあり、人の恨みを買うこともあった。

死後、軍神、財神として祀られている。

 

 

 

 

 

張飛

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210808122335j:image

 

 

張飛とは、中国、三国蜀の武将。

涿郡(河北省涿県)の人。

字は益徳。

諡号は桓侯。

劉備と同郷で、備が兵を起こすと関羽と共に参加し、以後、行動を共にした。

関羽より数年の年少であったので、羽に兄事した。

208年、魏の曹操が南下すると、荊州にいた劉備は南に逃れるが、この時、当陽の長坂橋上(湖北省当陽県)で、矛を横たえ目をいからし「我は張益徳なるぞ、きたりてともに死を決すべし」と叫んだのは有名である。

劉備が入蜀すると、これに同行したが、益州牧の劉璋の任じていた巴郡太守厳顔と対戦し、顔の璋に対する忠節に感じて彼を賓客にした。

劉備張飛巴西太守に任命して、魏の将張郃巴西侵入を防いで功があった。

彼は勇猛であり、平生部下を憐れまぬ所があり、常に鞭打っていたので、備はいつもこのことを飛に注意していた。

備の対呉戦争に同行する準備の最中に、部下の手にかかって殺された。

備は飛からの使者と聞いて、直ちにその死を予感したという。

 

 

 

 

 

趙雲

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210808122433j:image

 

 

趙雲とは、中国、三国蜀の武将。

字は子龍。

常山郡真定県(河北省正定県)の人。

はじめ、後漢公孫瓚に仕え、公孫瓚の将として袁紹との戦いに派遣された劉備に、主騎として従った。

その後、改めて劉備に仕え、「劉備と同じ床で眠った」という。

関羽張飛に匹敵する待遇を受けたのである。

荊州曹操に敗れた際には、単身で敵軍の真っただ中に駆け込み、長坂坡で逃げ遅れた阿斗(後の劉禅)とその生母の甘夫人を救い出し、牙門将軍に昇進した。

入蜀時には、諸葛亮孔明)と共に劉備を助け、漢中争奪戦では曹操の大軍を門を開けて迎え撃ち、劉備から称賛された。

軍中では、趙雲を「虎威将軍」と呼んだと言う。

また、劉備関羽のために呉を討とうとするのを留めた。

諸葛亮の第一次北伐に従って、囮の軍として箕谷に進出、主力軍と勘違いをして大軍を派遣した曹真に敗れた。

しかし、自らが殿軍となった為、軍需物資を殆ど捨てず、将兵は纏まりを無くさず撤退できた。

軍需物資の絹を将兵に分け与えようとした諸葛亮に、「敗戦の際に下賜をすべきではない」と述べ、敗戦の責任を明らかにした。

至誠に貫かれた趙雲の生涯は、『三国志演義』では更に高く評価され、五虎将軍の1人とされている。

 

 

 

 

 

馬超

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210808122506j:image

 

 

馬超とは、中国、三国蜀の武将。

字は孟起。

扶風茂陵県(陝西省興平県)の人。

涼州に独立勢力を築いていた馬騰の長子。

後漢曹操が漢中を攻めたことに身の危険を感じ、韓遂と連合して反乱を起こし、軍を潼関まで進めた。

これにより、都で隠居生活をしていた父・馬騰は殺された。

曹操との会談の際に、曹操を密かに殺そうとしたが、許褚が厳しく警護にあたっていたので失敗した。

更に、賈詡の計略によって、馬超韓遂の仲は引き裂かれた。

渭水の戦いでは、馬超軽騎兵は、曹操の親衛隊である「虎豹騎」と呼ばれる重装騎兵に敗れた。

道士・張魯を頼った後、漢中を支配下においた劉備に仕えて、左将軍となった。

三国志演義』では、曹操に誘き出された父の馬騰と弟達が殺されたので、劉備から曹操討伐の誘いを受けた馬超が、韓遂と共に曹操を攻めて、長安を取ったとしている。

史実とは違い、父の死去の順序を入れ換え、劉備に仕えた馬超を善玉にしている。

 

 

 

 

 

黄忠

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210808122539j:image

 

 

黄忠とは、生没年不詳。

中国、三国蜀の武将。

字は漢升。南陽郡(河南省南陽市)の人。

初め荊州牧の劉表の中郎将として、劉表の甥である劉磐と共に長沙郡を守っていたが、荊州曹操支配下に入ると、裨将軍に任ぜられた。

赤壁の戦い曹操が敗れると、劉備に帰順、その入蜀に随行して大きな功績を挙げた。

既に老将であったが、先頭に立って果敢に敵を攻め立てて陣地を奪う有様は、三軍の筆頭であったと言う。

219年、劉備が漢中を攻略した際には、定軍山で魏の夏侯淵を斬り、味方を勝利に導いた。

劉備が漢中王となると、後将軍に昇格するが、諸葛亮孔明)は、「黄忠は、名声も人望も関羽馬超と同格ではなく、実際に活躍を目にしている張飛はともかく、同等の位につかせることには、関羽が納得しないでしょう」と劉備を諫めた。

劉備は、「自分が関羽を説得する」として、あえて諸葛亮の進言を退け、黄忠を抜擢した。

いまでも中国では、「老黄忠」という言葉で、「老いてますます盛んな人」という意味を表す。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

三国志に登場する5人の人物ですね。

私は、中国史にあまり詳しく無いので、勉強していきたいと思います。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!