こんにちは!
今日は、五虎大将軍について紹介したいと思います!
五虎大将軍に選ばれたのは、
関羽(かんう」
張飛(ちょうひ)
趙雲(ちょううん)
馬超(ばちょう)
黄忠(こうちゅう)
の5人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
関羽とは、中国、三国蜀の武将。
河東解(山西省臨晋県)の人。
字は雲長。
諡は忠義侯。
解には塩池があるから、塩業関係の仕事に従事していたのかもしれない。
桃園で3人が義兄弟の約束を結んだことが小説『三国志演義』に見えるが、それに近いことはあったろう。
劉備が起兵すると羽も参加し、寝食を共にした。
200年、曹操と劉備が戦い、備は敗れ、羽は操に捕らえられた。
操は羽を礼遇して帰順を勧めたが、羽は操と袁紹との戦いに、紹の将である顔良の首を斬って、これを置き土産に備の所に帰った。
やがて、備と共に荊州に赴き、曹操が南下して来ると、ここを逃れたが、次いで起こった赤壁の戦い(208年)では、水戦で敗れた操の軍を陸上に待ち受けて撃ち破った。
劉備が諸葛亮や張飛らと蜀に入った後も、彼は荊州の留守を命ぜられ、江陵を基地とした。
219年、劉備が漢中王になったのを機に、北上して曹操の部将である曹仁を攻めて樊城(河南省襄樊市)を囲んだ。
しかし、荊州領有を目論む孫権が、操と同盟して背後を襲ったので、樊城陥落を目前に南に引き揚げたが、ついに臨沮(湖北省南漳県)において、子の関平と共に戦死した。
また、彼は武勇に優れていたばかりでなく、好んで『春秋左氏伝』を読んだ。
しかし、人を見下すことがあり、人の恨みを買うこともあった。
死後、軍神、財神として祀られている。
張飛とは、中国、三国蜀の武将。
涿郡(河北省涿県)の人。
字は益徳。
諡号は桓侯。
劉備と同郷で、備が兵を起こすと関羽と共に参加し、以後、行動を共にした。
関羽より数年の年少であったので、羽に兄事した。
208年、魏の曹操が南下すると、荊州にいた劉備は南に逃れるが、この時、当陽の長坂橋上(湖北省当陽県)で、矛を横たえ目をいからし「我は張益徳なるぞ、きたりてともに死を決すべし」と叫んだのは有名である。
劉備が入蜀すると、これに同行したが、益州牧の劉璋の任じていた巴郡太守厳顔と対戦し、顔の璋に対する忠節に感じて彼を賓客にした。
劉備は張飛を巴西太守に任命して、魏の将張郃の巴西侵入を防いで功があった。
彼は勇猛であり、平生部下を憐れまぬ所があり、常に鞭打っていたので、備はいつもこのことを飛に注意していた。
備の対呉戦争に同行する準備の最中に、部下の手にかかって殺された。
備は飛からの使者と聞いて、直ちにその死を予感したという。
趙雲とは、中国、三国蜀の武将。
字は子龍。
常山郡真定県(河北省正定県)の人。
はじめ、後漢の公孫瓚に仕え、公孫瓚の将として袁紹との戦いに派遣された劉備に、主騎として従った。
荊州で曹操に敗れた際には、単身で敵軍の真っただ中に駆け込み、長坂坡で逃げ遅れた阿斗(後の劉禅)とその生母の甘夫人を救い出し、牙門将軍に昇進した。
入蜀時には、諸葛亮(孔明)と共に劉備を助け、漢中争奪戦では曹操の大軍を門を開けて迎え撃ち、劉備から称賛された。
軍中では、趙雲を「虎威将軍」と呼んだと言う。
諸葛亮の第一次北伐に従って、囮の軍として箕谷に進出、主力軍と勘違いをして大軍を派遣した曹真に敗れた。
しかし、自らが殿軍となった為、軍需物資を殆ど捨てず、将兵は纏まりを無くさず撤退できた。
軍需物資の絹を将兵に分け与えようとした諸葛亮に、「敗戦の際に下賜をすべきではない」と述べ、敗戦の責任を明らかにした。
至誠に貫かれた趙雲の生涯は、『三国志演義』では更に高く評価され、五虎将軍の1人とされている。
馬超とは、中国、三国蜀の武将。
字は孟起。
扶風茂陵県(陝西省興平県)の人。
後漢の曹操が漢中を攻めたことに身の危険を感じ、韓遂と連合して反乱を起こし、軍を潼関まで進めた。
これにより、都で隠居生活をしていた父・馬騰は殺された。
曹操との会談の際に、曹操を密かに殺そうとしたが、許褚が厳しく警護にあたっていたので失敗した。
渭水の戦いでは、馬超の軽騎兵は、曹操の親衛隊である「虎豹騎」と呼ばれる重装騎兵に敗れた。
道士・張魯を頼った後、漢中を支配下においた劉備に仕えて、左将軍となった。
『三国志演義』では、曹操に誘き出された父の馬騰と弟達が殺されたので、劉備から曹操討伐の誘いを受けた馬超が、韓遂と共に曹操を攻めて、長安を取ったとしている。
史実とは違い、父の死去の順序を入れ換え、劉備に仕えた馬超を善玉にしている。
黄忠とは、生没年不詳。
中国、三国蜀の武将。
初め荊州牧の劉表の中郎将として、劉表の甥である劉磐と共に長沙郡を守っていたが、荊州が曹操の支配下に入ると、裨将軍に任ぜられた。
赤壁の戦いに曹操が敗れると、劉備に帰順、その入蜀に随行して大きな功績を挙げた。
既に老将であったが、先頭に立って果敢に敵を攻め立てて陣地を奪う有様は、三軍の筆頭であったと言う。
219年、劉備が漢中を攻略した際には、定軍山で魏の夏侯淵を斬り、味方を勝利に導いた。
劉備が漢中王となると、後将軍に昇格するが、諸葛亮(孔明)は、「黄忠は、名声も人望も関羽や馬超と同格ではなく、実際に活躍を目にしている張飛はともかく、同等の位につかせることには、関羽が納得しないでしょう」と劉備を諫めた。
劉備は、「自分が関羽を説得する」として、あえて諸葛亮の進言を退け、黄忠を抜擢した。
いまでも中国では、「老黄忠」という言葉で、「老いてますます盛んな人」という意味を表す。
如何でしたか?
三国志に登場する5人の人物ですね。
私は、中国史にあまり詳しく無いので、勉強していきたいと思います。
最後までお読み頂き有難う御座いました!