こんにちは!
今日は、レーサー新御三家について紹介したいと思います!
レーサー新御三家とは、
北野元(きたのもと)
長谷見昌弘(はせみまさひろ)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
高橋国光とは、日本の元レーシングドライバー、オートバイ評論家。
血液型はB型。
愛称は国さん。
二輪・四輪合わせて489レースに出場し、通算71勝を挙げている。
二輪では世界グランプリを転戦したが、四輪のレース活動は日本国内を主戦場とした。
華麗なドリフト走法で知られ、黒澤元治に代表されるグリップ走法派のドライバーが台頭した後もレースでドリフトを多用したことで知られる。
その為、ドリキン(ドリフト・キング)こと土屋圭市達から、師匠的な扱いを受けている。
1999年に59歳で現役を引退し、2000年以降は自らのレーシングチームであるチーム国光の監督を務めた。
以前はSUPER GTを運営するGTアソシエイションの会長も務めていた。
日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員(09-10等)。
日産ファクトリーでの後輩となる星野一義は、「僕は昭和22年生まれで、日産に1970年(昭和45年)に入って以後は昭和15年生まれの国光さんと、昭和16年生まれの北野元さんというお二人の背中をずっと見てレーシングドライバーとして育ってきた。このお二人を目標として生き様を見てきて、大恩人ともいえる存在です」と述べている。
モータージャーナリストの熊倉重春は1993年インターTECにて、「日本のレーサーで職人といえば中子修、天才といえば高橋国光」とその実力を評している。
ベストレースはGT2クラス優勝した1995年のル・マン24時間レースと述べている。
高橋もル・マン挑戦7回目にして初のドライバー、マシン、スタッフ、メカニック全てにおいてのオール・ジャパン体制での参戦に誇りを持っている。
愛車としてホンダ・レジェンドを初代から乗り継いでいる。
北野元とは、元レーシングライダー、元レーシングドライバー。
かつて高橋国光・黒澤元治と共に日産自動車追浜ワークスの三羽ガラス等と呼ばれたこともある。
現在は板橋区の川越街道沿いにてオートバイ用のタイヤを扱うタイヤショップ『ウルフ・モト』を経営。
ツインリンクもてぎ内の博物館ホンダコレクションホールに動態保存されている多くの2輪・4輪のレース用マシンをイベント等で走らせるドライバー役も務める。
愛称キタさん(北さん)。
血液型O型。
4輪時代は黒いジェット型ヘルメットに口ひげがトレードマーク。
右側に少し首を傾げてドライブするのも特徴で、ツーリングカーでは右手を窓枠にかけ、屡々片手ハンドルを行っていた。
マン島TTレースで重傷を負った際の後遺症の為と言われる。
日本の4輪レースでフルフェイス型ヘルメットが初めて使用されたのは、1969年の日本グランプリにおける日産チームだったと言われる(元祖フルフェイスであるベルのヘルメットを、日産がワークスドライバーに支給)。
殆どのドライバーが喜んでフルフェイスを使用する中、北野は「重く違和感がある」とジェット型ヘルメットに固執し、結果として同レースでは2位入賞。
その後、レース界はフルフェイス型が完全に主流になったが、1970年代中盤でも北野はジェット型を使用し続けていた。
とは言え、北野は1970年6月に行われた全日本富士300マイルで、白地に黄色い横のストライプの入ったフルフェイスをかぶって、黒澤元治とともにニッサンR382をドライブし優勝。1975年シーズンからは黒のフルフェイスを着用した。
高橋国光等と並び天才肌と称されたが、周囲の同年代よりも早めにトップカテゴリーから引退している為、やや地味なイメージになっている面もある。
しかし、当時を知る関係者や、近年のメモリアルイベントの現場で直に接した人々の間では、「あれだけの実績があるのに偉ぶらず親切で礼儀正しい人」と非常に人気が高い。
先輩である田中健二郎も「北野は向こうっ気が強い面もあったが、仲間やライバルが事故でコースアウトしていたりすると、すぐにマシンを止め真っ先に救助に駆け付ける男でもある」と評している。
砂子義一、片山義美、漆原徳光、高原敬武、星野一義、菱木哲哉等も北野の人柄を称えている。
レースでは誰よりも激しい走りを見せ全盛期の星野一義をも驚かせた北野だが、オーナーであるタイヤショップを訪れる一般ライダーには「タイヤの馴らしが終わるまで絶対に無理するなよ、スピードは控えめにしろよ、他人にいい格好を見せようとしちゃ駄目だよ」等と、元世界GPライダーとは思えない(逆に言えば危険な領域を知っているからと思われる)安全第一の丁寧なアドバイスを送ることで知られている。
長谷見昌弘とは、日本の元レーシングドライバーで、現・有限会社ハセミモータースポーツ代表。
東京都青梅市出身。
東京都立八王子工業高等学校卒業。
1964年四輪レーシングドライバーとなり日産・大森ワークスに所属、デビュー戦を勝利で飾る。
その後は日産を離れフリー(タキ・レーシング所属)になった事もあるが、後に日産・追浜ワークスに復帰しており、基本的には日産系ドライバーと見なされている。
1970年代から1990年代にかけて、長く日本のトップドライバーとして活躍を続けた。
1976年のF1世界選手権・イン・ジャパンにコジマからスポット参戦。
予選1回目で4位となり、F1にレギュラー出場している海外トップチームを驚愕させた。
2回目セッションでポールポジションを狙って乾坤一擲のアタックを試みるが、惜しくも最終コーナーでコースアウト、クラッシュを喫してしまう。
原因はサスペンショントラブルだった。
マシンはほぼ全損といっていい状況であったが、コジマのスタッフだけではなく他チームの関係者もボランティアでマシン修復を手伝い、決勝レースまでには走れる状態にまで再生された。
しかし、急拵えのマシンだけに細部のセッティング等は事故前のコンディションに程遠く、10番グリッドからスタートしたレースでは25周目にファステストラップ(のち取消)を記録し完走を果たすも、7周遅れの11位に留まった。
1977年にはマカオグランプリに参戦を開始。
1980年には当時日本人史上最高位となる2位表彰台を、1982年にはポールポジションを獲得するなど活躍。
1980年に国内レース史上初の4冠を達成。
1992年のデイトナ24時間レースにおいて、林義正と水野和敏が率いる日産ワークスで、星野一義、鈴木利男と共に日本人ドライバーによる日本車初優勝を成し遂げる。
如何でしたか?
レーサーにも新御三家がいるようですね。
日本のレーシング界にも歴史があることが分かりますね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!