いつか役に立つかもしれないムダ知識

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レーサー御三家って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、レーサー御三家について紹介したいと思います!

 

レーサー御三家とは、

式場壮吉

生沢徹(いくざわてつ)

滝進太郎

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

式場壮吉

 

 

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式場壮吉とは、日本の実業家・自動車評論家、元レーシングドライバー

1961年3月に成城大学文芸学部を卒業後、出版社に勤務。

その傍ら、1963年の第1回日本グランプリ鈴鹿)に向けてトヨタとワークスドライバー契約を結び、日本GPではC-Vクラスでコロナをドライブして優勝した。

第2回日本グランプリではT-VIクラスでクラウンをドライブし、性能に勝るプリンス・グロリア勢を相手に3位を獲得した。

また、GT-IIクラスではワークスからではなく個人エントリーにてポルシェ・904で参戦し優勝を果たしている。

このレースでは、新型ポルシェの入手経緯や、予選クラッシュ後の修復作業、決勝で生沢のスカイラインGTに先行された1周(「スカイライン伝説」の誕生)等、著名なエピソードを残すことになった。

 

 

 

 

 

生沢徹

 

 

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生沢徹とは、日本の元レーシング・ライダー、元レーシング・ドライバー、元レーシング・チームオーナー。

日本のカーレース創成期のスター選手の1人であり、ヨーロッパ挑戦の先駆者となった。

現在はイクザワ・マーケティング・インターナショナル代表としてロンドン・モナコ・東京に拠点を構え活動している。

レーシング・ドライバーを職業として成立させようとした点、海外レースに個人参加し世界最高峰レースであるF1を目指した点から、日本のレース界におけるパイオニア的な存在と評されている。

ヨーロッパF2ではグラハム・ヒル、ヨッヘン・リント、ロニー・ピーターソン、エマーソン・フィッティパルディニキ・ラウダ、クレイ・レガッツォーニといった名ドライバーを相手に戦った。

実力は海外でも評価され、ポルシェ本社のワークスチームに招聘された唯一の日本人ドライバーとなった。

我が道を貫くスタイルから「一匹狼」「クールなテツ」と呼ばれた。

テレビCMや広告、一般マスコミに露出する機会も多く、ファッションモデルとしても活躍していた福澤幸雄や、洒落者で知られた式場等とともに団塊世代のファッションリーダー的存在となった。

国内レース出場の為に帰国すると、空港で記者会見が開かれる程のスター選手であった。

ただし、プライベーター故の資金難や、レギュレーション改定の狭間におけるマシン選択の失敗等から、国際レースでは必ずしも成功したとは言えない。

ドライバー・チームオーナーとして目指したF1参戦は実現しなかった。

また、組織や師弟関係が重んじられる国内レース界では生沢の行動が軋轢を生むこともあった。

i&iレーシング設立時にはヒーローズレーシングから中嶋悟を引き抜いたことが批判され、当時国内最強と言われた松浦賢チューンのBMWエンジンの供給を受けられなかった。

 

 

 

 

 

滝進太郎

 

 

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滝進太郎とは、日本の実業家、元レーシングドライバー、レーシングチームオーナー。

日本のモータースポーツの黎明期、ビジネスとしてプライベートチームを成立させることに挑戦した先駆者と評価されている。

1964年8月16日にロータス・エラン26で第3回ナショナル・ストックカー・レース(川口市営自動車競技場)でデビュー。

1966年の第3回日本グランプリにポルシェ・カレラ6で出場し、プリンス・R380勢を相手に一時トップを走行したが、クラッシュでリタイヤした。

ドライバーとしての活動期間は1968年までと短かったが、1967年秋にプライベートのレーシングチーム「タキ・レーシング・オーガニゼーション」(TRO)を結成。

ポルシェやローラの市販スポーツプロトタイプを購入し、日産から田中健二郎や長谷見昌弘をスカウトして、大メーカーのワークスチームと互角に競い合った。

当時の日本グランプリは、トヨタ・日産・タキの頭文字をとって「TNTの戦い」と言われた。

1969年日本GPでは西ドイツからポルシェのワークスチームを招聘して話題を集めた。

タキ・レーシングはドライバーやマシンを広告媒体として活用し、ブリヂストンタミヤ等のスポンサーから活動資金を募った。

また、ファンクラブの結成、オフィシャルグッズの販売、ラリーイベント主催等の活動も行い、石原プロモーション製作映画『栄光への5000キロ』の撮影にも協力した。

経営者の滝は1969年に『走れ! レースビジネス』(三栄書房刊)という本を出版している。

チームは1973年のオイルショック後に活動を停止した。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

今では多くのレーシングドライバーが存在し、その中でも世界で活躍する選手が多数いますね。

このような時代が来る前に、レーシングドライバーという職業を確立し、世界へ挑戦した3人は、偉大な功績を残していますね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!