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五大老って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は五大老について紹介したいと思います!

 

五大老とは、豊臣氏の職制の1つ。

5人の年寄衆の呼称。

五奉行の上に位する職制で、政務を統轄した。

成立は、慶長2年(1597年)頃と推定される。

当初は、徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家小早川隆景がこれに任じられたが、小早川隆景の死後は、上杉景勝が加えられた。

その職務は、五奉行の顧問としての性質を持ち、必ずしも一般政務を担当したわけではない。

慶長の役文禄・慶長の役)の収拾にあたり、秀吉の死後、前田利家が秀頼の養育にあたり、徳川家康が政務に預かることとなり、自然に五奉行の権限を侵して家康に実権が移り、関ヶ原の戦いに至って崩壊した。

 

言い換えれば、豊臣家を支えた5人の大名のことです。

その5人である、徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家小早川隆景上杉景勝について簡単に紹介したいと思います!

 

 

徳川家康

 

 

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徳川家康とは、江戸幕府初代将軍(在職1603~1605年)。

岡崎城松平広忠の長男。

母は水野右衛門大夫忠政の娘。

幼名は竹千代、初名を元信、後、元康と言った。

院号は安国院。

織田信秀、次いで今川義元の人質となったが、永禄3年(1560年)、今川義元桶狭間の戦いで敗死すると、岡崎に帰り、織田信長とも親交を結び戦国大名として成長。

豊臣秀吉の天下統一に協力、五大老の筆頭として重きをなしたが、豊臣秀吉の死後、石田三成と反目して慶長5(1600年)、関ヶ原の戦い石田三成を破って、天下の覇権を握った。

慶長8年(1603年)2月12日、征夷大将軍宣下。

慶長10年、将軍職を子の徳川秀忠に譲って大御所として駿河に引退したが、なお幕政を後見した。

大坂冬・夏の陣(大坂の陣)で豊臣氏を滅ぼし、幕府の基礎を築いた。

元和2年(1616年)3月、太政大臣となる。

墓所は初め久能山、後、日光山(輪王寺)。

 

 

 

 

 

前田利家

 

 

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前田利家とは、安土桃山時代の武将。

加賀藩前田家の祖。

利昌の子。

幼名は犬千代、幼少から織田信長に仕え、永禄 12年(1569年)、織田信長の命で兄前田利久に代わって前田家を継いだ。

元亀1年(1570年)の朝倉征伐、更に姉川の合戦、長篠の戦い等に従軍して功を挙げる。

信長亡き後、柴田勝家豊臣秀吉天正11年(1583年)賤ヶ岳で戦った際、前田利家は当初柴田勝家についていたが、裏切って豊臣秀吉に従った。

天正13年(1585年)、豊臣秀吉越中佐々成政を倒してからは越中の3郡を与えられ、その信任は厚かった。

天正18年(1590年)、参議となり徳川家康上杉景勝らと五大老の1人として、また豊臣秀吉没後は豊臣秀頼の後見として徳川氏との調整にあたった。

 

 

 

 

 

毛利輝元

 

 

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毛利輝元とは、安土桃山~江戸時代初期の武将。

隆元の子。

幼名、幸鶴丸

通称、少輔太郎。

号、宗瑞。

元亀2年(1571年)、祖父毛利元就の跡を継いで、山陽、山陰10ヶ国と豊前筑前2ヶ国の大守となり、天正5年(1577年)以来、織田信長の軍勢と中国路で対戦するに至った。

本能寺の変後、中国攻略の織田方の主将羽柴秀吉と和して、羽柴秀吉支配下に入り、天正16年(1588年)、参議、慶長2年(1597年)、従三位中納言に叙し、豊臣家五大老の1人となった。

関ヶ原の戦いには西軍の盟主となって戦ったが敗れ、剃髪した。

吉川広家の努力によって除封を免れ、長門、周防2ヶ国36万9000石に削減され、萩に移った。

 

 

 

 

 

宇喜多秀家

 

 

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宇喜多秀家とは、戦国時代後期の武将。

宇喜多直家の子で初め家氏。

秀吉に召されて武将となり、四国、九州、小田原攻めに軍功を立て、文禄・慶長の役には朝鮮で活躍した。

秀吉の五大老制の採用では、その1人に挙げられ信任は厚かった 。

しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に投じて敗れたため、薩摩に逃れ、島津氏のもとに隠れていたが、島津忠恒の命乞いによって死を免れ、駿河久能に放たれ、慶長11年(1606年)4月には八丈島に流された。

島にあること約50年、配所で没した。

 

 

 

 

 

小早川隆景

 

 

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小早川隆景とは、安土桃山時代の武将。

毛利元就の3男。

母は吉川国経の娘。

天文13年(1544年)、竹原小早川家を、天文19年(1550年)、沼田小早川家を継ぎ、兄吉川元春と共に毛利氏を助け、「毛利の両川」と呼ばれた。

毛利氏が山陽、山陰、九州の一部を領有し得たのは2人の功によるところが大きい。

豊臣秀吉が中国征伐に出陣し、本能寺の変の報に接して天正10年(1582年)、毛利氏と講和した際、交渉にあたったのは小早川隆景であった。

以後豊臣秀吉と親交を結び、豊臣秀吉の四国、九州征伐に参加し、功によって伊予国を、更に天正16年(1588年)、肥前筑後の各2郡を与えられた。

次いで文禄の役に従軍。

文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いで明将李如松を破る。

文禄4年(1595年)、参議、次いで権中納言に進み、また大老として豊臣秀吉に重用されたが、家督を養子の小早川秀秋に譲って本領備後三原に隠退した。

 

 

 

 

 

上杉景勝

 

 

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上杉景勝とは、安土桃山、江戸時代初期の大名。

初名は顕景、後、喜平次、弾正少弼と称する。

父は長尾越前守政景。

叔父上杉謙信の養子となる。

上杉謙信没後の天正6年(1578年)、上杉景虎(謙信の養子)を打倒して上杉謙信の遺領を継承。

天正9年(1581年)以後、織田信長の攻撃を受けたが、本能寺の変後は豊臣秀吉に帰参。

小田原征伐朝鮮出兵に従う。

文禄3年(1594年)、従三位中納言

大老の列に加わり、慶長3年(1598年)、会津120万石を領する。

豊臣秀吉死後、徳川家康と対立。

関ヶ原の戦い後、徳川家康に降り、米沢30万石に減封。

大坂の陣には徳川方に加わった。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

宇喜多秀家小早川隆景は、割とマイナーな戦国武将かもしれないので、どんな人物か知らない人も多かったのではないでしょうか?

近いうち五奉行についても紹介したいと思います!

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!