こんにちは!
今日、日本三大史跡について紹介したいと思います!
日本三大史跡に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
へいぜいきゅうしとも言う。
幕末からその基礎的研究が始まるが、本格的調査が行われるようになったのは第2次世界大戦後で、特に1954年からの奈良国立文化財研究所 (奈良文化財研究所)の平城京全域を対象とする発掘調査は多大の成果を上げている。
宮の中心は正殿である大極殿で、その北に天皇の居所としての内裏、南には十二堂と朝集殿が続く。
宮域は土塀で画され、南面中央に朱雀門を配し、東、西、北の大路正面に宮門を置く。
建造物は、基壇、礎石を持つ瓦葺きの大陸風建築であったが、内裏内の建物は掘立柱、檜皮葺きの日本的建築と考えられる。
内裏、八省院は2ヶ所に確認され、朱雀門正面にあるもの(第1次)が遷都当初のもので、それより東にあるもの(第2次)は天平17年(745年)以後のものと考えられている。
宮域が東に拡大された部分には東院があり、緑釉瓦、緑釉塼を用いた玉殿、庭園等が確認された。
大宰府跡
特別史跡。
都府楼跡と呼ばれる政庁跡を中心として、日本最古と言われる梵鐘(国宝)を伝える観世音寺や史跡の筑前国分寺跡が存し、正庁跡の南には条坊制による都城址が認められる。
大宰府の北西には長さ1km、高さ14mの土塁があるが、これは天智3年(664年)築造の大堤の跡とされている。
更に北方と南方には、大野、基肄の2城址がある。
多賀城跡
多賀城跡とは、宮城県多賀城市にある奈良・平安時代の国衙と城柵の遺跡。
多賀城は、奈良時代初めに陸奥国府と鎮守府の所在として造営され、天平9年(737年)に多賀柵として史書に初見し、宝亀11年(780年)の伊治呰麻呂の乱で焼かれたが、8世紀末の蝦夷との武力衝突では律令政府側の基地として武備が加えられた。
台地端にあり1辺約900mの不整方形をした遺跡は、処々に門、櫓の遺構のある築地跡が周囲に残り、内部には政庁その他の官衙や倉の建物跡の礎石や掘立柱穴、竪穴住居址等があり、木簡、漆紙文書片、硯、土器、古瓦や鉄製武器が出土する。
城跡の南東に付属寺院の多賀城廃寺跡がある。
如何でしたか?
どの史跡も、日本史で聞いたことある人が多いのではないでしょうか。
史跡や城、神社仏閣を訪れる時は、事前にその建造物について調べておくと、より楽しむことができると思っています。
私も史跡や神社仏閣が大好きなので、また行きたいと思います!
最後までお読み頂き有難う御座いました!