こんにちは!
今日は、世界三大文化巨匠について紹介したいと思います!
巨匠とは、その方面、特に芸術の分野で際立ってすぐれた人のことを言います。
世界三大文化巨匠に選ばれたのは、
レンブラント・ファン・レイン
の3人です。
なお、世界三大文化巨匠は、神山典士の著書『知られざる北斎』で出典なしに言及されたものであることをご理解ください。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
レオナルド・ダ・ヴィンチとは、イタリアの画家、彫刻家、建築家、科学者。
フィレンツェのアンドレア・デル・ベロッキオに師事し、1472年に画家組合に登録。
1482年からミラノの宮廷で画家、彫刻家、建築家、兵器の技術者として活躍。
1499年フランス軍のミラノ占領により居を移し、マントバ、ベネチア、フィレンツェに滞在したが、1506年に再びミラノに戻り、科学的研究や運河の構築計画などを試みた。
1513年に教皇レオ10世に招かれてローマに滞在。
1516年フランス王フランソア1世の招きでアンボアーズ近郊のクルー城に赴き、同地で没した。
芸術と科学の合致を目指したルネサンスの「万能の人」であり、ルネサンス美術の完成者、また晩年は解剖学、機械設計の研究者として知られた。
おもな作品は『最後の晩餐』(1495~98、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂の修道院食堂)、『モナ・リザ』(1503~06、ルーブル美術館)など。
レンブラント・ファン・レイン
レンブラント・ファン・レインとは、オランダの画家、銅版画家。
フルネーム Rembrandt Harmenszoon van Rijn。
製粉業者の子に生まれ、1620年ライデン大学に入学したが、画家に転向。
最初は生地の画家ヤコブ・ファン・スワーネンブルフに、1624年にはアムステルダムでピーテル・ラストマンに師事した。
1625~31年にはライデンに戻り、聖書を主題にした作品を制作。
1632年からアムステルダムで肖像画家として名声を獲得し、社会的にも安定した生活を送った。
1642年には集団肖像画『夜警』(アムステルダム国立美術館)を制作したが、同 1642年妻サスキアが死去、また『夜警』も不評で急速に注文も減り、1656年には破産の宣告を受け、不遇のうちに没した。
微妙な明暗と色彩で人間精神への深い洞察を託した多くの傑作を残し、銅版画も制作。
その他の主要作品は『ニコラース・テュルプ博士の解剖学講義』(1632、マウリッツハイス美術館)、『バテシバ』(1654、ルーブル美術館)、『放蕩息子の帰宅』(1668~69頃、エルミタージュ美術館)。
葛飾北斎とは、江戸時代末期の浮世絵師。
幼名時太郎、10歳のとき鉄蔵と改名。
14、15歳頃、木版彫刻師の徒弟となり、安永7 (1778) 年勝川春章に師事。
翌8年勝川春朗と称する。
ひそかに狩野派を学んで春章門を追われ、堤派の堤等琳、土佐派の住吉内記に師事。
また司馬江漢の銅版画に感化を受け、和漢洋のあらゆる画法を体得した。
画域も役者絵、美人画、風景画、花鳥画、社会風俗画、挿絵、版本など広い分野にわたり、画狂人の自称どおり生涯に3万枚以上の作品を描いた。
改名癖があり、二十数回も改号し、その都度画風も異なる。
北斎と号したのは寛政 10 (98) 年からで、この号を用い風景版画を発表。
『富嶽三十六景』 (1830年から出版) が評判となり、浮世絵における風景版画創始者の地位を確立。
作品は早くから海外にも知られ、マネ、モネらフランス印象派の画家に大きな影響を与えた。
また文化年間 (04~18) には読本挿絵に専念し、次いで『北斎漫画』を続刊した。
その他の主要作品は狂歌本『東都名所一覧』挿絵、絵本『隅田川両岸一覧』挿絵、錦絵『近江八景』『諸国滝廻り』『千絵 (ちえ) の海』、肉筆画『二美人図』。
如何でしたか?
レオナルド・ダ・ヴィンチと葛飾北斎は聞いたことがある人が多いのではないでしょうか?
私自身、美術についてはあまり詳しくないのですが、これからも投稿していきたいと思います!
最後までお読み頂き有難う御座いました!