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日本三大山城って何?

こんにちは!

 

 

今日は、日本三大山城について紹介したいと思います!

山城とは、山険を利用して山頂、山腹などに築かれた城のことを言います。

 

日本三大山城に選ばれたのは、

岩村城岐阜県恵那市

高取城奈良県高取町)

備中松山城岡山県高梁市

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

岩村城

 

 

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岩村城とは、岐阜県恵那市にあった中世の山城(やまじろ)。

岐阜県指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

恵那市南部の岩村地区にある城山の山頂に築かれていた城で、江戸時代には岩村藩の藩庁が置かれた城である。

江戸時代、岩村城の本丸が日本の城の中で最も高い標高717mにあったことから、高取城奈良県高市郡高取町)、備中松山城岡山県高梁(たかはし)市)とともに日本三大山城の1つに数えられるようになった。

築城年代・築城者は明らかにはなっていないが、1185年(文治1)に源頼朝の家臣加藤景廉が遠山荘の地頭となり、岩村に移り住んだ景廉の長男景朝が岩村城を築き、遠山氏(岩村遠山氏)を称したといわれている。

以後、岩村城は戦国時代に至るまで遠山氏の居城となった。

戦国時代末期、城主の遠山景任は織田信長に従い、1570年(元亀1)、武田信玄に攻められたが、信長の支援のもと城を守り抜いた。

しかし、その後間もなく景任は病没し、嫡子が幼少のため、その夫人(織田信長の叔母)が城主をつとめた。

1573年(天正1)、信玄の部将の秋山信友が景任夫人を妻とすることにより岩村城を奪取し入城したが、1575年(天正3)に信長の嫡男信忠を大将とする織田軍に敗れ、開城して陥落した。

その際、織田氏は信友夫妻の助命を約束したが、それを翻して長良川の河川敷で夫妻を磔刑に処したといわれている。

その後、岩村城主(城代)は川尻秀隆、森氏3代(森蘭丸・長一・忠政)、田丸具忠とめまぐるしく変わった。

森長一・忠政の城主時代に、大規模な城の改修・整備が行われ、中世の城郭から近世の城郭に変わったといわれている。

1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで、城主の田丸氏は西軍(豊臣方)に属したことから、戦後、大給松平氏松平家乗が初代岩村藩主として入城した。

家乗は山上にあった城主の居館を城山の北西山麓に移し、城下町を整備した。

1645年(正保2)、松平氏の転封に伴い、丹羽氏信が入城し、丹羽氏が5代35年間にわたり居城とした。

丹羽氏が御家騒動により越後国新潟県)高柳藩に転封となった後は、再び大給松平氏が入城し、7代170年間にわたって城主をつとめ、明治維新を迎えた。

1873年(明治6)、廃城令により、城は解体された。城山麓の藩主邸は解体を免れたが、1881年(明治14)に全焼した。

現在、本丸、東曲輪(くるわ)、二の丸、三の丸、出丸の遺構のほか、櫓(やぐら)の礎石や石垣が現存している。

1972年(昭和47)、旧藩主邸の跡地に岩村町歴史資料館(現岩村歴史資料館)が開館した。

1990年(平成2)には表御門・平重門・太鼓櫓と藩主邸の一部、江戸時代の藩校の建物と門が再建された。

明知鉄道明知線JR中央本線恵那駅から乗り換え)岩村駅から城山麓岩村歴史資料館まで徒歩約20分、本丸跡まではさらに徒歩約20分。

霧ヶ城ともよばれる。

 

 

 

 

 

 

高取城

 

 

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高取城とは、奈良県高市郡高取町にあった山城(やまじろ)。

戦国時代は筒井順慶(じゅんけい)の詰(つめ)の城。

美濃岩村城岐阜県恵那市)、備中松山城岡山県高梁市)とともに日本三大山城の1つ。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

南北朝時代に豪族の越智邦澄(おちくにずみ)が標高583mの高取山の頂に砦のような城を築いたのが始まりとされる。

織田信長の大和一国一城令により廃城となったが、1584年(天正12)に筒井順慶大和郡山城の詰(つめ)の城として復興した。

1585年(天正13)、大和郡山城主羽柴秀長(ひでなが)の重臣本多正俊が高取城主となり、天守閣・石塁などの本格的な築城を進めた。

本多家は利家に嗣子がなく断絶。

1640年(寛永17)幕府大番頭の植村家政が2万5000石で入封し、以降、明治維新にいたるまで植村家が14代228年続いた。

高取城は山頂に本丸をおき、堀は2.8kmの大規模なものだった。

明治初期に建物は取り壊されたが、縄張りはほぼ完全に遺構をとどめ、二の門が子嶋寺に、新御殿表門が石川医院に移築されている。

近鉄吉野線壺阪山駅からバスで壺阪寺下車、徒歩20分。

芙蓉城(ふようじょう)ともいわれた。

 

 

 

 

 

 

備中松山城

 

 

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備中松山城とは、岡山県高梁(たかはし)市にあった山城(やまじろ)。

近世の山城としては唯一天守などが残る。

標高480mの臥牛山(がぎゅうざん)は4つの峰からなり、そのうちの小松山に本丸、二の丸、三の丸が階段状に配され、ほかに大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。

城跡は国の史跡に指定され、現存する天守、二重櫓(にじゅうやぐら)、土塀の一部が国の重要文化財となっている。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

この地は山陰と山陽を結ぶ戦略上の要所として知られ、中世から戦乱が絶えなかったところ。

1240年(仁治1)に秋葉重信(あきばしげのぶ)がこの地方の地頭となり、大松山に最初の城を築いた。

この時は簡単な砦であったとされる。

以後、城主はめまぐるしく替わり、戦国時代の三村元親(みむらもとちか)の代に本格的な山城として整備された。

しかし、元親は毛利輝元(もうりてるもと)と争い、自刃して果てた。

関ヶ原の戦いの後、小堀正次・政一(小堀遠州(えんしゅう))父子が代官として入り、城の改修を行った。

同時に、山麓に御根小屋(おねごや)と称する居館を設けた。

その後、池田氏、水谷(みずのや)氏と領主は替わるが、現存する天守などの建築物は水谷氏時代に築かれた。

水谷氏改易後、安藤・石川・板倉氏と、譜代大名が城主となった。

幕府の老中となった板倉氏7代目の勝静(かつきよ)の代に明治維新を迎えた。

明治の廃城令により御根小屋は取り壊されたが、現在その跡地には高梁高校がある。

JR伯備線備中高梁駅からバス10分で松山城登山口下車、徒歩20分。

松山城、高梁城ともいう。

 

 

 

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

備中松山城以外は、建造物が残っておらず、石垣しかないようですね。

ただ、石垣を見ただけで険しい山に建っているイメージがつきますね。

機会があれば、訪れてみたいと思います!

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!