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院展三羽烏って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、院展三羽烏について紹介したいと思います!

院展とは、日本美術院が主催する絵画、彫刻等の展覧会のことです。

 

院展三羽烏に選ばれたのは、

小林古径(こばやしこけい)

安田靫彦(やすだゆきひこ)

前田青邨(まえだせいそん)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

小林古径

 

 

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小林古径とは、日本画家。

本名は茂。

両親の死後 12~13歳頃から日本画を習い、1899年上京して梶田半古に歴史風俗画を学んだ。

同年日本美術院展に初出品以来多くの展覧会に出品し、実力を認められる。

1910年紅児会の会員となり、14年日本美術院同人、18年日本美術院評議員となった。

22年渡欧、西洋美術の研究と顧 愷之 (こがいし) 筆『女史箴図巻』の模写 (東北大学) を行った。

帰国後は 35年帝国美術院会員、44年東京美術学校教授、帝室技芸員

また帝展、新文展の審査員を務め、50年文化勲章受章。

51年文化功労者

作品は歴史画、風俗画を主とし、新古典的日本画とも言える様式を確立、前田青邨安田靫彦 (ゆきひこ) と共に日本美術院三羽烏として高く評価された。

主要作品『極楽井 (ごくらくのいど) 』 (1912、東京国立近代美術館) 、『阿弥陀堂』 (15、東京国立博物館) 、『いでゆ』 (18、同) 、『鶴と七面鳥』 (28、永青文庫) 、『清姫』 (30、山種美術館) 、『髪』 (31、永青文庫) ,『弥勒』 (33、山種美術館) 。

 

 

 

 

 

安田靫彦

 

 

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安田靫彦とは、日本画家。

本名は新三郎。

1898年小堀鞆音に師事、同年 14歳で日本美術院展に出品。

紫紅会 (後の紅児会 ) を結成、今村紫紅らと研鑽を積み、新日本画運動を推進した。

初期文展でも活躍したが、1914年日本美術院再興にあたって同人となり、以後は院展発展の為に尽くした。

歴史画に優れ、大和絵を基礎とした高雅で洗練された新古典主義と呼ばれる画風を展開。

古美術についても造詣が深く、また良寛の筆跡を世に宣揚した。

帝室技芸員、帝国芸術院会員、東京美術学校教授を務め、48年文化勲章受章。

その他第2次世界大戦前及び戦後を通じ、法隆寺壁画の再現事業に尽くし、69年には前田青邨と共にその総監修を務めた。

主要作品『夢殿』 (1912、東京国立博物館) 、『五合庵の春』 (20、同) 、『日食』 (25、東京国立近代美術館) 、『役優婆塞 (えんのうばそく) 』 (36、群馬県立近代美術館) 、『黄瀬川陣』 (41、東京国立近代美術館) 、『王昭君』 (47) 、『鴻門会』 (55、東京国立近代美術館) 。

 

 

 

 

 

前田青邨

 

 

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前田青邨とは、日本画家。

本名は廉造。

1901年上京、梶田半古に師事。

07年紅児会の結成に参加。

内国勧業博覧会、内国絵画共進会、紅児会等に出品を続け、次第に画壇に地歩を築いた。

14年日本美術院の再興とともに同人となり、以後は小林古径安田靫彦 (ゆきひこ) らと共に院展三羽烏として活躍。

22~23年日本美術院留学生として渡欧。

東洋の古美術研究に努め、第2次世界大戦前には中国、朝鮮へ旅し、戦後も 60年に日本画家代表団団長として訪中。

帝室技芸員東京芸術大学教授、日本芸術院会員、55年文化功労者、同年文化勲章受章。

武者絵等の歴史画を得意とする他、静物画、風景画、肖像画等にも洗練された技巧を示し、絵巻等も描いた。

その他、法隆寺金堂壁画の再現や、高松塚古墳の壁画模写等、日本の古美術の保存や復元に尽くした。

主要作品『京名所八題』 (1916、東京国立博物館) 、『西遊記』 (27、MOA美術館) 、『奎堂先生』 (42) 、『風神雷神』 (49) 、『石棺』 (62、東京国立近代美術館) 、『腑分』 (70、山種美術館) 。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

前回に続き、日本画家の三羽烏ですね。

今回は、院展で活躍した3人ということで、院展と聞くと、日本史を思い出しました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!