こんにちは!
今日は五奉行について紹介したいと思います!
五大老の下に位した。
前田玄以、浅野長政、石田三成、増田長盛(ましたながもり)、長束正家(なつかまさいえ)の5人がその任にあった。
これらの5人が奉行として連署した初見は文禄4年(1595年)であるが、これは五奉行という制度化された呼称ではなかった。
五奉行の成立は慶長3年(1598年)7月頃、豊臣秀吉の死の直前ではないかと推測される。
以来、豊臣秀頼の時代まで続いた。
職務の分担は主として前田玄以が公家、寺家、社家、その他諸座、諸職に関し、長束正家が知行、兵糧等財政に関し、浅野、石田、増田らが司法並びに一般行政に関してそれぞれ担当した。
大事件については、5人の合議によって処理された。
関ヶ原の戦いで崩壊した。
それでは、五奉行である前田玄以、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家について簡単に紹介したいと思います!
名は宗向。
徳善院と称し、半夢斎、民部卿法印と号した。
幼時比叡山に上って僧侶となり天台教学を修めたという。
豊臣秀吉に重用され、天正13年(1585年)、丹波亀山5万石を領し、京都の奉行となった。
豊臣秀吉の晩年の慶長3年(1598年)頃、五奉行の1人に挙げられ、特に公家、寺社を管轄した。
関ヶ原の戦いには西軍に属したが、この間東軍徳川方に通じたこともあり、戦後も本領は安堵された。
尾張の安井重継の子。
幼名は長吉、後、弥兵衛。
浅野長勝の養嗣子となる。
初め織田信長に仕え、豊臣秀吉とは相婿の関係にあり信任され豊臣家五奉行の筆頭となる。
天正15年(1587年)、若狭小浜城主。
文禄の役(文禄・慶長の役)に軍監として渡鮮し、帰朝後の文禄2年(1593年)、甲斐府中城 22万5000石に増封。
関ヶ原の戦いには浅野幸長と共に徳川家康に属し、自らは徳川秀忠に従って出陣した。
豊臣家五奉行の1人。
治部少輔。
初名三也、通称佐吉、本名宗成。
父は正継。
近江坂田郡石田村の人。
13歳の時、豊臣秀吉に仕え、側近として厚い信任を受けた。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに軍功があり、天正13年(1585年)、豊臣秀吉が関白になると、諸大夫12人の中に選ばれ従五位下、治部少輔。
これより特に重用され、更に枢機に参与するようになった。
天正15年(1587年)の九州征伐の際には長束正家と共に兵站を受け持ち、島津義久の降伏後は、博多の復興の為に尽力した。
天正18年(1590年)の小田原征伐の際にも忍城の水攻め等で活躍し、また文禄・慶長の役にも出陣し、軍需品輸送、占領政策にも才能を発揮した。
太閤検地に際しては長束正家、浅野長政らと共にその中心的な役割を果した。
所領は初め近江国水口4万石であったが、文禄4年(1595年)には近江国佐和山18万石の城主となり、更に豊臣秀吉直轄領7万石の代官となった。
豊臣秀吉の死後、徳川家康の勢力の増大を恐れ、慶長5年(1600年)、関ヶ原に家康と戦って敗れ(関ヶ原の戦い)、捕われて京都六条河原において斬首された。
彼は常に民政に留意、『石田三成条目』を出している。
通称、仁右衛門。
豊臣秀吉に仕え、特に民政に才幹があって重用され、太閤検地の実施に力を尽くした。
また文禄の役の功によって文禄4年(1595年)、大和郡山20万石を領した。
慶長3年(1598年)頃、五奉行の1人に挙げられ、知行、兵糧等、主として財政を担当した。
関ヶ原の戦いには西軍に属して、領地を没収され、高野山に追われたが、後、武蔵岩槻に流された。
初め丹羽長秀に仕えたが、理財に長じているところから天正13年(1585年)に豊臣秀吉に召し抱えられた。
以後各地の検地奉行を務め、伏見城や肥前名護屋城等の工事を分担。
文禄4年(1595年)、近江水口5万石の城主となり、後、12万石に加増。
官位も大蔵少輔から従四位下侍従に進んだ。
豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは石田三成軍に属し、池田輝政に攻められて自決。
如何でしたか?
石田三成以外は、名前も初めて聞いたという人が多いかもしれないですね。
私も、五奉行になるまでの生い立ちはあまり知らなかったのでとても勉強になりました。
日本史が大好きなので、日本史系の投稿も今後したいと思います!
最後までお読み頂き有難う御座いました!