こんにちは!
今日は、島津四兄弟について紹介したいと思います!
島津四兄弟に選ばれたのは、
島津歳久
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
島津貴久の長男。
島津氏16代。
永禄9年(1566年)、家督を継ぐ。
弟義弘と共に伊東義祐、竜造寺隆信、大友義統を破り、ほぼ九州全域を平定。
文禄の役には義弘を朝鮮に派遣し、自分は太閤検地等への対応にあたった。
慶長16年1月21日、死去。
79歳。
初名は忠良、義辰。
通称は又三郎。
号は竜伯。
島津義弘とは、戦国〜織豊時代の武将。
天文4年7月23日生まれ。
島津貴久の次男。
島津氏17代。
兄義久と共に九州をほぼ平定。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉に敗れたが、大隅領有は許される。
文禄・慶長の役で朝鮮に出陣、泗川の戦いで明(中国)の大軍を破る。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敵中を縦断して退却した。
元和5年7月21日、死去。
85歳。
薩摩(鹿児島県)出身。
初名は忠平、義珍。
通称は又四郎。
号は惟新。
島津歳久
島津歳久とは、戦国〜織豊時代の武将。
天文6年生まれ。
島津貴久の3男。
薩摩(鹿児島県)祁答院領主。
天正15年、豊臣秀吉の九州攻めで兄義久は降伏したが、歳久は最後まで抵抗。
天正20年、梅北国兼が肥後(熊本県)佐敷で起こした梅北一揆に、歳久の家臣が多く加担していた為、秀吉の怒りを買い、同年7月18日、自刃させられた。
56歳。
通称は金吾。
号は晴蓑。
島津貴久の4男。
兄義久、義弘を助け、島津氏の九州平定に努め、日向(宮崎県)佐土原を居城とする。
佐土原の引き渡しを拒んだ為、天正15年6月5日、秀長陣所で毒殺されたという。
41歳。
通称は又七郎。
如何でしたか?
島津は、大友や龍造寺といった大名がいた吸収を統一までしたのですから、力がありますね。
戦国時代の歴史というと、どうしても三英傑にスポットがあたりますが、九州や四国、東北といった地方の歴史を勉強するのも面白いかもしれないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!