こんにちは!
今日は、五摂家について紹介したいと思います!
五摂家に選ばれたのは、
の5つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
平安末期の法性寺関白藤原忠通(ただみち)の長子基実(もとざね)を始祖とする。
近衛の称はその邸が近衛通りに面していたことにちなみ、基実の子基通(もとみち)のときより近衛氏を称する。
家実(いえざね)を経て兼経(かねつね)のとき弟の兼平(かねひら)が鷹司(たかつかさ)氏を興し、ここに近衛家は2流に分かれ、九条・二条・一条の3氏と並んで五摂家と称され、その筆頭に位置した。
一名「陽明」とも称されるが、これは禁裏(きんり)の陽明門を東西に通じているのが近衛通りであることにちなむ。
17代信尹(のぶただ)には継嗣(けいし)なく、信尹の妹前子(さきこ)の所生になる後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の第4皇子信尋(のぶひろ)が入って18代となった。
江戸時代の家領は2862石余。
五摂家(ごせっけ)の1つ。
関白忠通(ただみち)の三男で、京都九条殿に住んだ兼実(かねざね)が、鎌倉初期に源頼朝(みなもとのよりとも)と結び、摂政(せっしょう)・関白になって興した家。
近衛(このえ)家と並んで五摂家の双璧(そうへき)となった。
同じ五摂家の二条(にじょう)・一条(いちじょう)家は兼実の孫道家(みちいえ)から分かれた家である。
広大な家領(けりょう)を所有し、代々摂関として近世末まで宮廷政治の重鎮であった。
鎌倉幕府の摂家将軍といわれる頼経(よりつね)、頼嗣(よりつぐ)は九条家出身である。
江戸時代の家領は2000石、のち3000石。
幕末関白となった尚忠(ひさただ)は佐幕派となり、反対派のため辞職。
孫道孝(みちたか)は明治維新に官軍の奥羽鎮撫(おううちんぶ)総督として活躍、明治維新後公爵を授けられた。
貞明皇后(ていめいこうごう)は道孝の四女。
豊富な文書典籍は現在宮内庁書陵部に蔵され、その一部は同部編『九条家文書』として刊行された。
五摂家(ごせっけ)の1つ。
鎌倉中期九条道家(くじょうみちいえ)の第2子良実(よしざね)を祖とする。
二条京極(きょうごく)の邸に住んだところから二条と称す。
良実は1242年(仁治3)関白(かんぱく)となり、以後子孫は他の摂家と並び立った。
鎌倉末期道平(みちひら)は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の討幕計画に加わり、弟師基(もろもと)は南朝に仕えた。
道平の子良基(よしもと)は北朝に仕え、学者としても有名。
その孫が足利義満(あしかがよしみつ)の諱(いみな)1字をもらって満基(みつもと)と称して以来、室町時代、江戸時代を通じて代々足利・徳川将軍の諱を1字もらうことを例とした。
江戸時代の知行高(ちぎょうだか)は1700石。
明治維新後、公爵を授けられた。
一条家とは、藤原氏北家(ほっけ)、五摂家(ごせっけ)の1つ。鎌倉時代の初め、実経(さねつね)が父九条道家(くじょうみちいえ)から所領と邸宅を譲られたことから始まる。
この邸宅が一条室町(むろまち)にあったことから一条殿といわれ、家名となった。
代々摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)に任ぜられ、近衛(このえ)家、九条家などとともに、公家(くげ)でも重きを置いた。
室町中期の兼良(かねら)は学者としても名高い。
兼良の長子教房(のりふさ)は戦乱を避け、家領土佐国(高知県)幡多荘(はたのしょう)に下り、その子孫は土佐国司を兼ねて、土佐一条家といわれ、戦国大名化したが、長宗我部(ちょうそがべ)氏に滅ぼされた。
京都では教房の弟冬良(ふゆら)が継いだ。
兼良の子で興福寺大乗院門跡(もんぜき)に入った尋尊(じんそん)も有名である。
近世初めには、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の皇子兼遐(かねとお)(昭良(あきよし))を迎え、家名を存続した。
五摂家の1つ。
鎌倉中期の近衛家実(このえいえざね)の四男兼平(かねひら)を祖とする。
兼平は1252年(建長4)兄近衛兼経(かねつね)の後を受けて摂政(せっしょう)、ついで関白(かんぱく)となった。
以後子孫も他の摂関家と並んで、交互に摂政・関白に任ぜられるようになり、摂関家としての家格も定まり、家領もできて一家が成立した。
五摂家のなかでは最後の成立である。
家名は、兼平の邸が京都鷹司室町(むろまち)にあったところから称された。
室町末期、12代忠冬(ただふゆ)のあと嗣子(しし)がなく、約30年中絶していたが、1579年(天正7)織田信長の口添えで、同じ五摂家の二条晴良(はるよし)の三男信房(のぶふさ)が鷹司家を継いで再興した。
江戸中期、基輝(もとてる)のあとも後嗣に欠け、閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう)の皇子を迎えて輔平(すけひら)と名づけ継がせた。
幕末、政通(まさみち)・輔煕(すけひろ)父子は開国前後の公武の多難な時期に摂政・関白となり活躍した。
江戸時代、知行高(ちぎょうだか)は初め1000石、のちに1500石となった。
家蔵の書籍、文書も多く、そのほとんどは政通の手によって整理され、また欠を補われている。
蔵書にはたいがい「鷹司城南館」の蔵書印が捺(お)されており、明治維新後あげて明治天皇に献上され、現在は宮内庁書陵部にある。
如何でしたか?
日本史で聞いたことがあるのではないのでしょうか?
また、今年の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、近衛前久と二条晴良が登場していますね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!