こんにちは!
今日は、和歌四天王(南北朝時代)について紹介したいと思います!
和歌四天王(南北朝時代)に選ばれたのは、
頓阿(とんあ)
慶運
浄弁
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
頓阿
俗名、貞宗。
父は二階堂光貞。
20歳前後に出家して比叡山で修学、後四条道場金蓮寺に出入りした。
東山双林寺に住んだこともあるが、晩年は洛西の蔡花園 (さいけえん) に住んだ。
二条為世の門弟で和歌四天王の1人。
建武2 (1335) 年の『内裏千首歌』、興国5=康永3 (44) 年の『高野山金剛三昧院奉納和歌』、正平 22=貞治6 (67) 年の『新玉津島歌合』その他多くの歌会、歌合に参加。
勅撰集『新拾遺和歌集』は撰集半ばで撰者二条為明が死去したので、頓阿がその業を継ぎ完成させた。
『続千載集』以下の勅撰集に 44首入集。
家集『草庵集』、『続草庵集』 (66?) 、『頓阿法師詠』 (57) の他、数種の百首歌が伝存する。
また歌学書『井蛙抄』 (6巻、60~63) がある。
『愚問賢註』は二条良基の問いに頓阿が答えた良基の聞き書きである。
慶運
慶運とは、南北朝時代の二条派の歌僧。
「きょううん」とも読む。
浄弁の子。
正平 24=応安2 (1369) 年 70歳頃まで生存。
頓阿、兼好、浄弁と共に南北朝期の和歌四天王の1人。
「高野山金剛三昧院奉納短冊」の人数に入り、正平7=文和1 (52) 年関白良基の百首に列しているが、生存中の勅撰集には1首も入らず、不遇であった。
『慶運法師百首』『慶運法印集』がある。
頓阿等に比べて、より物寂びた、やや古風な感じの作風。
浄弁
浄弁とは、南北朝時代の歌僧、法印。
二条家の和歌四天王の1人だが、4人のうち経歴が最もはっきりしない。
同じく四天王の1人の慶運の父。
『続千載集』以下の勅撰集に 21首の作品がみえる。
俗名は卜部兼好 (うらべかねよし) 。
卜部氏は神道の家。
京都吉田に住むところから吉田氏をも称した。
出家後は音読して「けんこう」と号した。
父兼顕や兄兼雄も朝廷に出仕していたが、兼好も 20代は後二条天皇に仕えて左兵衛佐となり、その間豊富な有職故実の知識を得るとともに、歌を二条為世もとで修練した。
30歳前後に出家して山城国小野庄に住んだらしい。
『兼好法師家集』 (1346頃) や『徒然草 (つれづれぐさ) 』によると、その後関東にも下っており、また比叡山横川や京に住んで、南朝と北朝の対立する社会変動の激しい時代に傍観者として自己の真実に従って生きていたらしいことが知られる。
歌人としては二条派に属し、頓阿、浄弁、慶運と共に和歌四天王と称された。
上記の家集の他『続千載集』以下に 18首入集。
如何でしたか?
吉田兼好は有名ですが、他の3人は中々マニアックですね。
二条良基と言えば、連歌の達人で、『菟玖波集』を編纂した人物ですね。
二条家については、五摂家について取り上げた記事があるので、是非読んでみて下さい!
最後までお読み頂き有難う御座いました!