こんにちは!
今日は、明治の三筆について紹介したいと思います!
明治の三筆に選ばれたのは、
日下部鳴鶴(くさかべめいかく)
中林梧竹(なかばやしごちく)
巌谷一六(いわやいちろく)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
日下部鳴鶴とは、明治、大正の書家。
旧姓田中、後、日下部家の養子となった。
名は八十八、後に東作。
字は子暘。
号は鳴鶴、東嶼、翠雨、野鶴等。
書は初め巻菱湖、貫名海屋らに、次いで1880年、来朝した清の楊守敬に学んだ。
更に1891年、中国に渡って古法を極め、謹厳で気迫に満ちた鳴鶴流を完成し、明治以降の唐様書道界に君臨した。
主要作品『草書七絶条幅』(1897年頃)、『南紀瀞渓詩』(1918年)。
中林梧竹とは、書家。
名は彦四郎、隆経。
字は子達、号は梧竹、剣書閣主人。
鍋島家に仕え、19歳の時に藩の留学生として江戸へ行き、山内香雪に書を学んだ。
1882年、中国に渡って北京の潘存に師事、1884年、漢や六朝の古碑の拓本を数多く携えて帰国。
東京に出て、六朝風書道の研究、流布に没頭した。
1897年、再び中国に渡り、帰国の後、気宇壮大で高雅な書風を完成。
主要作品『大篆書幅』と『良寛賛詩』(1907年)。
巌谷一六とは、幕末、明治の書家。
名は修、字は誠郷、号は一六。
水口藩(近江)に仕えた藩医の家に生まれ、初め医術を修めたが、藩儒の中村栗園に就いて漢学を学ぶ。
内閣大書記官を経て貴族院議員を務めた。
書は若くして巧妙で、1880年に中国、清の楊守敬の来朝の際には、日下部鳴鶴と教えを受け、その六朝の書風を学んだ。
書はその磊落な性格を反映し、新鮮で飄逸。
碑文や法帖が多い。
如何でしたか?
三筆というのは、様々な時代に存在するのですね。
もしかしたら、現代にも三筆が存在するのかもしれないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!