こんにちは!
今日は、日本三大悪人について紹介したいと思います!
日本三大悪人に選ばれたのは、
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
義淵の弟子。
そのためか弓削道鏡と呼ばれる。
初め葛木山で修業、のち東大寺に入り、天平宝字5 (761) 年保良宮 (ほらのみや) で孝謙上皇の病気を癒やして以来信任され、少僧都となり、同8年恵美押勝 (藤原仲麻呂 ) 失脚後は仏教政治をしき、翌年太政大臣禅師、天平神護2 (766) 年法王となった。
神護景雲3 (769) 年弟の大宰師弓削浄人や宇佐の神官習宜 (すげ) 阿曾麻呂によって、道鏡を皇位につけようとする神託が仕組まれたが、和気清麻呂らに阻止され、称徳天皇 (孝謙天皇重祚) の死後、下野薬師寺に左遷された。
父は乎麻呂。
本姓は磐梨別公 (いわなしのわけのきみ) 。
孝謙天皇の頃京に上り、武官として右兵衛少尉、従六位上の官位を得、天平神護1 (765) 年勲六等を受け、吉備藤野和気真人の姓を賜わった。
これらは恵美押勝 (藤原仲麻呂 ) 追討の功によるものと思われる。
神護景雲3 (769) 年道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位につこうとしたとき、神託を聞くことを命じられた清麻呂は、道鏡が皇位を望むことは神霊もこれを震怒すとして道鏡の野心を退けた。
宝亀1 (770) 年光仁天皇が即位すると、京に召し返されて和気朝臣の姓を賜わり、天応1 (781) 年従四位下となった。
その後、民部大輔、摂津大夫などを経て延暦 15 (796) 年従三位となった。
彼は吏務に精通し、『民部省例』 (20巻) を撰し、『和氏譜』を奏上した。
また長岡京の造営が停滞していることを憂え、天皇に葛野 (かどの。平安京 ) への遷都を進言したり、摂津大夫のとき治水工事を行ったり、延暦初年、神護寺の前身である神願寺を河内に建立したりした。
死後、彼の遺志によって、備前国の彼の私墾田 100町を、百姓賑給田 (しんごうでん) として農民の厚生の料にあてた。
鎮守府将軍良将の子。
上京して藤原忠平に仕えたが、官途を得ず下総に帰った。
前常陸大掾源護と争い、これに味方した叔父国香を殺し、国香の子貞盛に攻められたが、これを打ち破った。
のち常陸国府を焼き打ちし、下野、上野の国府を攻略して、新皇と号し、下総に王城を営み、文武百官を任命した。
朝廷では、征東大将軍藤原忠文に討伐させたが、その軍の到着以前に、下野押領使藤原秀郷の助けを得た貞盛に殺された。
死後、その霊は神田明神の将門社 (東京都千代田区) に祀られた。
足利尊氏とは、室町幕府初代将軍 (在職 1338~58) 。
貞氏の子。
母は上杉清子。
初名は高氏。
元弘の乱に際し、元弘3=正慶2 (1333) 年5月六波羅探題を攻め滅ぼし、建武政府が成立すると、高氏は従三位、武蔵守に叙任され、天皇の諱の1字を賜って尊氏と改名した。
しかし建武2 (1335) 年、建武政府にそむき、建武3 (1336) 年光明天皇を擁立して幕府を創設。
延元3=暦応1 (1338) 年征夷大将軍、以後累進して正二位権大納言にいたる。
当初は弟直義と二元政治をとったが、正平7=観応3 (1352) 年直義を殺し、将軍への権力集中に成功した。
如何でしたか?
足利尊氏が悪人というのは、少し意外ですね。
また、平将門と足利尊氏は、大河ドラマの主人公としても扱われており、1度観てみたいなと思いました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!