こんにちは!
今日は、日本プロ野球の通算監督勝利数ベスト3について紹介したいと思います!
日本プロ野球の通算監督勝利数ベスト3とは、
1位:鶴岡一人
2位:三原脩
3位:藤本定義
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
鶴岡一人とは、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身の元プロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。
位階は従五位。
1946年から1958年までは「山本 一人」。
現役時代の身長は173cm、体重68kg。
愛称は鶴岡親分・ツルさん。
初代「ミスターホークス」「ドン鶴岡」とも呼ばれた。
南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の1人。
一軍監督として通算1773勝を挙げたプロ野球史上最多勝監督。
また、勝率.609は通算500勝以上を挙げている歴代監督の中でも唯一の6割超えである。
球界ではゼネラルマネージャーの元祖と言えば根本陸夫が語られることが多いが、編成や契約金等の細やかなバランスにも関わった鶴岡は、松木謙治郎・三原脩と共に実質的GMの先駆とされる。
鶴岡は球団から絶大な信頼があり、大阪で試合が終わると夜行列車で東京に向かい、早朝に目当ての大学野球の選手の家を訪問することさえあった。
抱えたボストンバッグには札束が唸っていたと言う。
球界初とされる専属スコアラーの導入、常駐スカウトを採用し、卓越した外国人管理術等、鶴岡は球界の近代化に大きく寄与した人物である。
鶴岡と言えば「精神野球」のような印象を持たれるかもしれないが、寧ろその逆で、新しいことに取り組むのが早く、データ、情報を活用した草分けだった。
今を先取りした新しさ、義理と人情の古めかしさと、鶴岡の求心力によって、それらが程良く交ざり合い強力チームを作り上げた。
こうした鶴岡の手法は、上記の言葉に由来する「ゼニの取れる野球」に加え、後には「がめつい野球」とも称されることとなる。
三原脩とは、香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)出身のプロ野球選手(内野手、右投右打)・監督・球団経営者。
出生時の本名及び読売ジャイアンツ総監督退任までの表記は「三原 修」。
長女の三原敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父に当たる。
注目されるのが監督としての三原で、選手の調子やツキを見逃さない慧眼の持ち主で、周囲の予想を超える、或いは予想に反する選手起用や戦術で数々の名勝負を演出し、その手腕は「三原魔術」「魔術師」「知将」と驚嘆された。
日本プロ野球史上において「日本野球連盟」「2リーグ分立」(後のセントラル・リーグ及びパシフィック・リーグの両方)に加盟する球団での日本シリーズといった、3種類の優勝を経験した唯一の人物である。
監督としての通算3248試合出場は日本プロ野球記録で、監督としての在籍球団数(5球団)も藤本定義、石本秀一と並ぶ日本プロ野球タイ記録である(監督代理は含めない)。
東京巨人軍第3代監督で、巨人と阪神の両方で監督を務めたことがある唯一の人物である。
東京巨人軍で7回の優勝を果たした時代は戦前の1リーグ制だった為、リーグ優勝を果たして日本シリーズに出場したのはタイガース監督時代の1962年・1964年のみでいずれも敗退している。
通算1000勝以上の監督で、日本シリーズでの優勝経験がないのは西本幸雄、別当薫で、別当にはリーグ優勝の経験もない。
監督として、退場処分を7度記録している。
如何でしたか?
古い時代の監督が多いですね。
最近は、10年くらい続けている監督も少ないので、通算だと中々及ばないようですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!