こんにちは!
今日は、日本プロ野球の通算死球ベスト3について紹介したいと思います!
1位:清原和博
2位:竹之内雅史
3位:衣笠祥雄
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
清原和博とは、日本の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、野球評論家、タレント、YouTuber。
愛称はお祭り男、(球界の)番長。
2019年よりワールドトライアウトの監督を務める。
高校野球の甲子園大会での通算本塁打数の最多記録保持者(13本。春に4本、夏に9本)。
日本プロ野球(NPB)では1986年から2008年までの23年間に渡り、西武ライオンズ、読売ジャイアンツ(巨人)、オリックス・バファローズの3球団でプレーした。
NPBにおける打率(.304)・本塁打(31本)・打点(78点)・塁打(236)の高卒新人記録保持者。
通算本塁打200号の最年少記録保持者。
サヨナラ安打(20本)、サヨナラ本塁打(12本)、オールスター戦通算打点(36打点)、オールスター戦MVP(7回)の最多記録保持者。
プロ入りから21年連続2桁本塁打、13年連続20本塁打以上の日本記録保持者。
西武ライオンズでの4番出場数1121試合の球団記録保持者。
巨人在籍185本塁打の移籍入団選手の最多記録保持者。
2000本安打達成者の中で安打に占める本塁打の割合は、歴代で王貞治に次ぐ2位である。
NPB記録となる死球の数を経験したこともあってか、ダメージの観点から死球にそれなりに詳しいようで死球をくらい痛がる選手を見ても「実際は大丈夫でしょう」と断言することもある。
竹之内雅史とは、神奈川県横須賀市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
現在は羽衣国際大学総監督。
腕っぷしの強さで長打もあったが、好球必打で四球は少なく、何度も怪我に泣き年間フル出場は1度も無かった。
逆に死球は極めて多く、通算死球数166、シーズン最多死球7回を記録し、1970年5月24日の阪急戦(小倉)での1試合3死球はプロ野球記録である。
体だけでなく気も強かった竹之内は、プロの先輩でもある南海の野村克也に「おい特攻隊、当たらんようにせい」と囁かれ、「うるせえ、おっさん」と言い返したこともあった。
ヤマを張って踏み込むタイプではなかったにも関わらず、とにかくぶつけられ、1969年から1971年まで3年連続のリーグ最多死球を記録。
特に1971年は54試合出場で14死球も受けてしまい、手首や肘の関節部への死球でなければ痛くなかったとはいうものの、流石に故障には繋がった。
更に、南海戦ではキャッチャーボックスにいる野村から、絶えずボソボソしつこく囁かれていた為、背後にいる野村の前で屁をかましたことがある。
引退後は野球解説者・野球評論家・タレント。
本名同じ。
メディアにおける愛称は「鉄人」、先輩や同い年からの愛称は「キヌ」もしくは「サチ」、後輩からは「キヌさん」と呼ばれる事が多かった。
国民栄誉賞受賞者。
息子は元俳優の衣笠友章。
連続試合出場記録日本記録・世界2位記録、連続フルイニング出場歴代4位、通算安打数歴代5位(通算2543安打は福本豊とタイ)、通算本塁打数歴代7位(通算504本は張本勲とタイ)の記録保持者。
赤ヘル打線の主砲として山本浩二と共に1970年代後半から1980年代の広島東洋カープ黄金時代を築き上げる原動力となった選手の1人である。
通算被死球161は日本プロ野球史上3位だが、振る舞いは非常に紳士的であった。
どんなに危険で痛い死球を受けても、怒るどころか左手を差し出し「大丈夫だよ」と逆に相手投手を気遣いながら一塁へ向かっていた。
1979年8月1日の対巨人戦で西本聖から死球を受け乱闘騒ぎになった際、西本が衣笠の元へ謝りに近寄っていったところ「危ないからベンチに下がっていろ」と言われ、西本は衣笠の器の大きさを感じたと語っている。
大島康徳は「ただ一人だけ、僕がそういうとき(死球や危ない球が来たとき)の対応で、すごいな、カッコいいなと思ったのが広島の衣笠祥雄さんです。あの人は危ない球だろうが、当てられようが、ほとんど顔色を変えず、当たったときもその個所を手でサッとはらい、タタタッと一塁に向かった。ダンディでしたね。もちろん、衣笠さんは避け方もうまかった。逃げるのが下手な選手なら、あんなに当てられているうちに何度も大ケガをしてますよ。」と述べている。
如何でしたか?
死球が多いというのは、それだけインコースを攻められたということになりますね。
清原や衣笠は死球が多いにも関わらず、怪我をあまりせずに2000本安打達成しているのが凄いですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!