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日本プロ野球のシーズン防御率ベスト3って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、日本プロ野球のシーズン防御率ベスト3について紹介したいと思います!

 

日本プロ野球のシーズン防御率ベスト3とは、

1位:藤本英雄(ふじもとひでお)

2位:景浦将(かげうらまさる)

3位:沢村栄治(さわむらえいじ)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

藤本英雄

 

 

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藤本英雄とは、プロ野球選手(投手:右投右打)、監督。

5月10日、韓国釜山生まれ。

下関商から明治大学に進み、通算34勝9敗の成績でエースとして活躍、2回の優勝をチームに齎した。

1942年(昭和17年)途中から東京巨人(現、読売ジャイアンツ)に入団すると、シーズン終了までに14試合に登板して10連勝、六大学野球を席捲した豪球の威力を見せつけた。

翌1943年にはノーヒットノーランを達成し、34勝、防御率0.73、253奪三振で投手三冠王に輝いた。

この年の19完封と防御率は、プロ野球記録(2015年時点)である。

1944年には監督を兼任、更に2年連続の奪三振王を手にし、第二次世界大戦後の1946年には2回目の最優秀防御率を獲得した。

1947年は1年だけ中日ドラゴンズに在籍したが、1948年から巨人に戻り、1949年には24勝7敗で3回目の最優秀防御率投手となる力投を見せ、沢村賞を受賞した。

この頃に編み出したスライダーが大きな武器となり、1950年には史上初の完全試合を達成した。

1955年で引退し、巨人の二軍監督、コーチとなり、大和証券の監督を務めた。

投手としての通算勝率6割9分7厘、同防御率1.90はいずれも歴代1位(2015年時点)である。

選手としての実働13年間の通算成績は、登板試合367、投球回2628と3分の1、200勝87敗、防御率1.90、奪三振1177、完投227、完封63。

獲得した主なタイトルは、最多勝利1回、最高勝率3回、最優秀防御率3回、最多奪三振2回、沢村賞1回、ベストナイン1回。

監督としての通算成績(2年)は、60試合、34勝23敗3分け、勝率5割9分6厘。

1976年(昭和51年)、野球殿堂野球殿堂博物館)入り。

 

 

 

 

 

景浦将

 

 

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景浦将とは、プロ野球選手(外野手:右投右打)。

7月20日愛媛県生まれ。

松山商の投手兼三塁手として1932年(昭和7年)春の選抜大会で優勝し、夏の甲子園でも準優勝した。

立教大学進学後は、主に外野手として強打を奮った。

1936年、大学を中退して大阪タイガース(現、阪神タイガース)結成と同時に入団し、4番・三塁手として打線の中心を担い、優勝決定戦では、東京巨人(現、読売ジャイアンツ)のエース・沢村栄治から特大のホームランを放ったが敗れ、優勝を逸した。

2年目の1937年春には打点王、同年秋は首位打者となって沢村の前に立ちはだかった。

更に決定戦でも沢村を攻略して日本一となり、雪辱して見せた。

また、投手としても活躍し、1936年秋には最優秀防御率を獲得、1937年春は防御率2位で、タイトルを握った沢村に肉薄、投打両面において、沢村最大のライバルとして激しい戦いを演じた。

1938年春は2回目の打点王を獲得したが、1940年から1942年まで兵役につき、1943年の1シーズンだけ復帰すると、1944年には再び従軍、翌1945年フィリピンで戦死し、30歳で世を去った。

実働5年間の打者としての通算成績は、出場試合323、安打307、打率2割7分1厘、本塁打25、打点222。

獲得した主なタイトルは、首位打者1回、打点王2回。

投手としての通算成績は、登板試合56、投球回274と3分の1、27勝9敗、防御率1.57、奪三振134、完投10、完封2。

獲得した主なタイトルは、最優秀勝率1回、最優秀防御率1回。

1965年(昭和40年)に野球殿堂野球殿堂博物館)入り。

 

 

 

 

 

沢村栄治

 

 

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沢村栄治とは、プロ野球選手(投手:右投左打)。

2月1日、三重県宇治山田市(現、伊勢市)生まれ。

京都商業(現、京都学園高)在学時より速球投手として有名であった。

1934年(昭和9年)秋、同校5年生で全日本チームに選ばれて、来日したアメリカ大リーグ選抜チームと静岡草薙球場で対戦した時、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグらの超一流打者に対し好投、ゲーリッグのホームランにより1対0で惜敗したが、その時の善戦の模様は今日まで語り伝えられている。

1936年、プロ野球の公式戦が始まると東京巨人(現、読売ジャイアンツ)のエースとして活躍、巨人に初の優勝を齎した。

1937年、春季シーズン(1937~1938年は2シーズン制)24勝4敗で、初の最高殊勲選手(現、最優秀選手)となる。

三段落ちと言われたドロップ(落差の大きいカーブ)と豪速球が持ち味であった。

兵役に2度就いた為、巨人での実働は5年間。

1944年12月、台湾沖で戦死。

1947年彼の名を冠した「沢村賞」を制定、一時セントラル・リーグの投手のみを対象としていたが、現在はパシフィック・リーグも対象として、該当者の無い場合を除き優秀投手に毎シーズン贈ることにしている。

その背番号14は巨人の永久欠番である。

実働5年間の通算成績は、登板試合105、投球回765と3分の1、63勝22敗、防御率1.74、奪三振554、完投65、完封20。

獲得した主なタイトルは、最多勝利2回、最優秀勝率1回、最高勝率1回、最多奪三振2回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)1回。

1959年(昭和34年)、第1回目の野球殿堂野球殿堂博物館)入り。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

戦前に活躍した選手がほとんどですね。

このような偉大な投手を戦争で失ってしまったことは、大変残念なことであると感じました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!