こんにちは!
今日は、日本プロ野球の通算完投ベスト3について紹介したいと思います!
日本プロ野球の通算完投ベスト3とは、
1位:金田正一(かねだまさいち)
2位:スタルヒン
3位:鈴木啓示(すずきけいし)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!

8月1日、愛知県生まれ。
1950年(昭和25年)、名古屋の享栄商業高(現、享栄高)を中退し、直ちに国鉄スワローズ(現、東京ヤクルトスワローズ)に入団、その年に早くも8勝を挙げた。
1964年、読売ジャイアンツ(巨人)に移籍、1969年を最後に現役引退。
この間に優れた左腕投手として、通算最多勝利400勝、通算最多奪三振4490、通算完投数365のプロ野球歴代1位の記録(2019年時点)を樹立した。
また、巨人移籍以前は下位球団にありながら、入団翌年の1951年より1964年まで14年連続20勝のプロ野球記録を達成した。
1957年8月21日、対中日ドラゴンズ戦で完全試合を達成し、ノーヒットノーランも1回記録した。
更に、登板数944、防御率1位3回、投球回数5526と3分の2等、数々のプロ野球記録を残した。
その背番号34は巨人の永久欠番。
監督としては、1974年から1978年までロッテオリオンズ(現、千葉ロッテマリーンズ)監督を務め、1974年に日本シリーズで優勝した。
その後、1990年(平成2年)から2年間、再度ロッテオリオンズ監督を務めた。
選手としての20年間の通算成績は、登板試合944、投球回5526と3分の2、400勝298敗、防御率2.34、奪三振4490、完投365、完封82。
獲得した主なタイトルは、最多勝利3回、最優秀防御率3回、最多奪三振10回、ベストナイン3回、沢村賞3回。
監督としての通算成績(8年)は、1011試合、471勝468敗72分け、勝率5割2厘、リーグ優勝1回、日本シリーズ優勝1回。

5月1日、帝政ロシアのウラルに生まれる。
ロシア革命に追われて3歳の時、両親とともに来日。
北海道の旭川中学3年在学中の1934年(昭和9年)秋にアメリカ大リーグ選抜チームが来日し、選ばれて全日本チームの投手となる。
その後、全日本チームが東京巨人(現、読売ジャイアンツ)となり巨人選手となる。
1936年から投手として活躍。
沢村栄治投手の応召(1938年)の後は巨人のエースとして1939年、1940年の両年最高殊勲選手(現、最優秀選手)となった。
第二次世界大戦後は6球団に所属し、1955年、初の300勝投手となった。
同年、引退。
1957年1月、自動車事故で死去。
戦時中は須田博と改名させられていた。
1939年の1シーズン42勝の記録は、西鉄の稲尾和久投手が1961年にタイ記録を出したが、通算最多完封記録83はプロ野球記録(2015年時点)である。
1984年旭川市は改築した市営野球場を旭川スタルヒン球場として開場した。
実働19年間の通算成績は、登板試合586、投球回4175と3分の1、303勝176敗、防御率2.09、奪三振1960、完投350、完封83。
獲得した主なタイトルは、最多勝利6回、最高勝率2回、最優秀防御率1回、最多奪三振2回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)2回、ベストナイン1回。

9月28日、兵庫県生まれ。
西脇南中から育英高に進み、1965年(昭和40年)春の選抜大会に出場した。
同年、秋から行われるようになったドラフト制度で近鉄バファローズ(後の大阪近鉄バファローズ)から2位指名を受けて入団した。
1年目の1966年に10勝(12敗)をマークすると、15年連続で2桁勝利を挙げたが、そのうち、1967年から1971年までの5年連続を含め、20勝以上のシーズンが8回もあった。
正確無比な制球力を有し、無四球試合通算78はプロ野球記録、ノーヒットノーランも2回達成した。
オールスター戦にも15回出場する等、長きに渡ってパシフィック・リーグを代表する左腕として活躍し、1985年限りで現役を退くまでに歴代4位の317勝をマークした。
1993年(平成5年)から近鉄の監督を務めたが結果を出せず、1995年のシーズン途中に辞任した。
選手としての20年間の通算成績は、登板試合703、投球回4600と3分の1、317勝238敗、防御率3.11、奪三振3061、完投340、完封71。
獲得した主なタイトルは、最多勝利3回、最高勝率1回、最優秀防御率1回、最多奪三振8回、ベストナイン3回。
監督としての通算成績(3年)は、348試合、167勝171敗10分け、勝率4割9分4厘。
如何でしたか?
またしても金田正一が1位ですね。
本当に偉大な投手であったことが分かりますね。
また、初めて外国人選手がランキングに入っていますね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!