こんにちは!
今日は、維新三傑について紹介したいと思います!
維新三傑とは、倒幕・維新に尽力した藩士・諸士のうち、特に功績の大きかった3人のことです。
維新三傑に選ばれたのは、
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
木戸孝允とは、明治初期の政治家。
通称桂小五郎。
幕末・維新期に長州藩の代表格として討幕運動に尽力、西郷隆盛、大久保利通と共に明治維新三傑とも称される。
長州藩藩医和田昌景の子として生まれ、7歳で桂家の嗣子となる。
嘉永2(1849)年吉田松陰のもとに入門、嘉永5(1852)年江戸に留学し、洋式砲術・兵術、造船術、蘭学を学ぶ。
江戸では水戸、越前、薩摩などの尊攘派と親しく交わり、以後尊王攘夷運動に奔走。
禁門の変や長州征伐で諸藩から孤立を深める長州藩の中枢にあって藩政を支え、慶応2(1866)年薩長同盟の密約を成立させた。
維新後も明治政府に出仕し、版籍奉還を建言して明治2(1869)年にこれを実現させ、明治4(1871)年の廃藩置県に至るまで、幕藩体制を解体して近代的中央集権国家を確立する基礎作業を推進した。
更に明治4年岩倉遣外使節に副使として同行し、諸国の憲法その他の法制を担当して研究した。
帰国後は憲法の制定を建言したが、富国強兵政策に邁進する大久保との間で台湾征討を巡って対立、一時官職を辞した。
復職後は健康が優れず、京都で病没した。
通称吉之助。
南洲と号した。
薩摩藩下級士族の出身。
藩主島津斉彬 (なりあきら) の知遇を受け藩政に参画。
慶応3 (1867) 年 12月9日の王政復古に重要な役割を演じ、新政府参与、戊辰戦争では大総督参謀となった。
明治4 (71) 年、参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したが、征韓論を唱えて政府にいれられず辞職。
帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力した。
しかし中央政府との疎隔が甚だしくなり、部下に擁立されて 1877年、西南戦争を起こし、ついに敗れて城山で戦死した。
死後、陸軍大将の位階などが復元された。
大久保利通とは、明治の元勲。
維新政府成立後、明治2 (1869) 年参議、同4年大蔵卿を経て、1873年内務省設置とともに内務卿に就任。
明治4年岩倉具視に従って遣欧使節団に加わったが、73年5月征韓問題で帰国し、内治優先を主張して征韓派を辞職に追込んだ。
佐賀の乱を鎮圧した後、台湾出兵を推進し、その処理のため 74年9月北京に赴き、全権弁理大臣として清国との交渉に成功、同 10月日清両国間互換条款に調印した。
他方、殖産興業、地租改正、秩禄処分など近代産業国家としての基盤を整備する諸策を断行したが、その近代化、欧化政策は旧士族層の怨嗟を買った。
旧薩摩藩士族に擁立された西郷隆盛による西南戦争を山県有朋指揮下の政府軍によって平定。
太政官政府を武力内乱による危険から除いた翌年、石川県士族島田一郎によって東京紀尾井坂で暗殺された。
如何でしたか?
明治維新で活躍する有名な3人ですね。
しかしながら、この3人はいずれも明治時代初期に亡くなっており、内閣総理大臣にはなっていませんね。
後を引き継いだ伊藤博文や山県有朋などの人物が、明治政府を引っ張って行くことは、日本史でも出てきますね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!