こんにちは!
今日は、寛永の三傑について紹介したいと思います!
寛永の三傑に選ばれたのは、
青山忠俊
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
大炊助、大炊頭。
系図では徳川家康家臣利昌の子だが、水野信元の子とも家康の子とも伝えられる。
幼少時より家康に仕え、秀忠が誕生すると側近として付けられ、200俵を与えられる。
慶長5(1600)年の上杉景勝攻め、真田昌幸の上田城攻撃には秀忠に供奉し、使番として諸勢を指揮した。
翌年徒頭。
7年加増され1万石。
15年下総佐倉城主3万2400石。
17年4万5000石に加増。
この年から秀忠の使者として再三、駿府の家康に遣わされ、国政の機密事項に関与する。
19年の大坂冬の陣、翌年の夏の陣の作戦にも参画。
そののち6万5200石に加増。
家康の死後、朝鮮通信使来聘などを務め、幕府年寄中随一の実力者となった。
元和6(1620)年には、利勝に縁組の斡旋を願った大名が数十人もいたという。
9年秀忠が将軍を辞して大御所となると、秀忠付きの西ノ丸年寄として依然権勢を維持し、「大炊殿ひとりのように」と称された。
寛永2(1625)年9月、14万2000石に加増。
7年9月明正天皇即位のときは秀忠の使者を務めた。
秀忠死後も年寄を務め、10年4月、1万8000石加増され、下総国古河藩(茨城県古河市)へ転封。
15年小事の職務を許され、中風を患ったこともあって、幕政への影響力は減少するが、重要時には会議に出席するなど72歳で死ぬまで幕閣の重鎮であった。
青山忠俊
青山忠俊とは、江戸前期の幕府老職。
通称は藤五郎、官職名は伯耆守、関東総奉行忠成の次男。
徳川秀忠に近侍、慶長12(1607)年徳川家光に付属され、15年書院番頭となる。
18年父の遺領と合わせて3万5000石を領知。
大坂の陣で勇戦。
元和1(1615)年酒井忠世、土井利勝と共に家光の輔導役となり、後に寛永の三輔と俗称される。
2年老職(のちの老中)に就任し、6年武蔵岩槻(埼玉県)4万5000石に封ぜられる。
度重なる直言のため家光の勘気を受け、9年上総(千葉県)大多喜2万石に減封、のちに蟄居。
相模(神奈川県)今泉村で死去。
男色や女装を好む家光に諫言し、将軍教育を行ったとされる。
酒井忠世とは、江戸初期の老中。
雅楽頭。
名門雅楽頭系の重忠と山田重辰の娘の嫡男として生まれ、天正18(1590)年に徳川秀忠の家老となり、慶長後半から寛永11(1634)年まで老中として幕閣の中枢にあって幕政を主導した。
寛永3年には従四位下侍従に叙任、上野国厩橋(前橋)城主として知行高も最終的に12万石余りを領した。
元和1(1615)年から土井利勝らと共に徳川家光の補導役となったが、家光は平素口数少なく厳正重厚な忠世を最も畏れたという。
秀忠の没後忠世は家光から疎まれる傾向にあり、寛永11年の家光上洛では江戸城の留守居を命じられたが、閏7月西丸から出火し、その責めを負って寛永寺に蟄居した。
これが家光の勘気に触れ老中を解任となった。
如何でしたか?
江戸幕府初期ということで、あまり知られていないかもしれませんね。
大河ドラマで言うと、『葵徳川三代』で活躍している印象があります。
最後までお読み頂き有難う御座いました!