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世界三大独裁者って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、世界三大独裁者について紹介したいと思います!

 

世界三大独裁者に選ばれたのは、

アドルフ・ヒトラー

ヨシフ・スターリン

毛沢東

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

アドルフ・ヒトラー

 

 

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アドルフ・ヒトラーとは、ドイツの政治家。

第1次世界大戦に志願して出征。

1919年9月ドイツ労働者党に入党、のちその独裁的指導者となり、これを国家社会主義ドイツ労働者党 (ナチス ) と改名。

23年 11月ミュンヘン一揆を起して失敗し投獄された。

出獄後は合法的大衆運動として党を再組織し、保守派、軍部、大資本家の援助により、32年には大統領選挙に出馬したが落選。

その後ナチスは第一党となり、33年首相。

34年8月 P.フォン・ヒンデンブルク大統領の死後、大統領を兼ねて総統 (フューラー ) と称した。

以後独裁政治によって軍備を拡大し、ベルサイユ条約を破棄し、侵略主義を推進してドイツを全体主義国家にした。

39年9月ポーランドに侵入し第2次世界大戦を開始、45年4月敗戦を目前に自殺。

 

 

 

 

 

ヨシフ・スターリン

 

 

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ヨシフ・スターリンとは、ソ連共産党指導者。

本名は I.V.Dzhugashvili。

靴職人の子に生まれ、1894年チフリス高等神学校に入学、98年グルジアの愛国的社会主義団体に加入し、マルクス主義に接近、99年神学校から追放された。

職業革命家となり、革命まで逮捕、流刑、逃亡を繰り返した。

1912年党中央委員となって機関紙編集を担当、スターリン (鋼鉄の人) を名乗った。

17年の二月革命後党政治局員となり、ソビエト政権では民族問題人民委員に就任、ボルシェビキ内での発言力を強めていった。

22年党書記長に就任、死ぬまでその地位にあった。

24年 V.I.レーニンの死後、L.トロツキーを排除するため G.E.ジノビエフ、L.B.カーメネフトロイカ方式を組み、同年「一国社会主義」理論を提起。

28~29年トロツキージノビエフカーメネフ、N.I.ブハーリンA.I.ルイコフ、M.P.トムスキーなどを順次排除し、独裁体制を固めるとともに、28年からの5ヵ年計画により工業化を強行。

36年の「スターリン憲法」は社会主義の勝利とソビエト市民の権利擁護を打出したが、皮肉なことにその前後から膨大な数の党員が投獄、処刑される「大粛清」が開始された。

41年首相の地位をも兼ね、第2次世界大戦では国防会議議長、赤軍最高司令官として戦争を指揮。

戦後東欧諸国で新体制が生まれたが、ユーゴスラビアコミンフォルムから追放したり、画一的な路線や粛清を各国に押しつけたりして、その後の動乱のきっかけをつくった。

53年脳出血で死去。

主著『マルクス主義と民族・植民地問題』 Marksizm i natsionalno-kolonialnyi vopros (1912~13) 、『レーニン主義の諸問題』 Voprosy leninizma (26) 、『ソ連における社会主義の経済的諸問題』 Ekonomicheskie problemy sotsializma v SSSR (52) など多数。

 

 

 

 

 

毛沢東

 

 

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毛沢東とは、中国の政治家、思想家。

中国共産党の指導者。

下層中農の子に生まれ、辛亥革命が起ると革命軍に約半年間参加。

1913年湖南省立第一師範学校に入学、在学中に進歩的青年団体「新民学会」を組織し、社会的政治的活動に踏み出した。

五・四運動のなかで湖南の学生連合会機関誌『湘江評論』の編集と執筆にあたり、20年夏頃からマルクス主義者となって社会主義青年団の地方組織をつくった。

21年7月上海における中国共産党創立大会に湖南代表として出席、23年6月の三全大会で中央委員に選ばれた。

24年国共合作が成立すると国民党中央委員候補に選出され、26年の国民党二全大会でも再選、さらに広州の農民運動講習所所長となり農民運動の組織化に努めた。

27年の国共分裂後、秋収暴動を組織、指導したが失敗し、井崗山にたてこもり、28年4月朱徳の部隊と合流して中国工農紅軍を組織してその政治委員となった。

以後農村の土地革命、紅軍強化、ソビエト政権樹立などのために戦った。

31年 11月江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府が樹立されるとその主席に選出され、34年に再選された。

その後5回にわたる国民政府軍の包囲攻撃と戦い、34年 10月根拠地の移動を余儀なくされて長征を開始し、途中の貴州省遵義で 35年1月中国共産党中央政治局拡大会議が開かれた際、党中央の指導権を握るにいたった。

31年以来日本の軍事侵略が強まるなかで内戦停止と一致抗日を呼びかけ、36年の西安事件を契機に日中戦争勃発後の 37年9月国共合作が成立。

この間 37年には『実践論』『矛盾論』を書いて党内の教条主義と経験主義の誤りを批判し、中国独自の革命理論を展開。

38年には『持久戦論』を書いて抗日戦勝利の理論的根拠を明らかにするとともに、人民戦争論を打ち出した。

40年の『新民主主義論』で新民主主義革命の理論を深め、42年から整風運動を指導し、45年『連合政府論』のなかで民主連合政府の必要性を説いた。

45年4月の七全大会で党中央委員会主席に選出された。

8月日本の敗北後は民主連合政府を樹立するため蒋介石と交渉を行ったが、国府アメリカの援助を受けて 46年夏から解放区に全面的な攻撃を開始、約3年にわたる内戦ののち、49年 10月1日中華人民共和国の成立と同時に中央人民政府主席に選ばれ、名実ともに中国の最高指導者となった。

54年9月の第1回全国人民代表大会憲法が制定されると、共和国国家主席に選出され、59年に辞任して劉少奇と代わったが、45年以来党中央委員会主席の地位にあって内外の政策を指導し、65~69年の文化大革命ではその先頭に立った。

72年 R.ニクソン大統領、田中角栄首相らと会見、国交正常化に努めた。

76年天安門事件の発生で、鄧小平の解任と華国鋒の総理就任を提案。

同年9月 83歳で死去。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

どの人物も世界史ではよく出てくる人物ですね。

独裁政治によって上手くいった国もいくつかありますが、恐怖政治は良くないと思います。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!