こんにちは!
今日は、第二次世界大戦の世界三大激戦について紹介したいと思います!
第二次世界大戦の世界三大激戦に選ばれたのは、
硫黄島の戦い
ノルマンディー上陸作戦
バルジの戦い
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
硫黄島の戦い
硫黄島の戦いとは、太平洋戦争中の 1945年2月 19日、ハリー・シュミット海兵隊少将指揮下のアメリカ海兵隊3個師団6万 1000人が高速空母機動部隊と水陸両用支援部隊の援護、支援のもと硫黄島に上陸し、栗林忠道陸軍中将指揮下の2万 2000人の陸海軍部隊からなる日本守備隊との間で行った戦い。
3月 26日、栗林中将と海軍部隊指揮官の市丸利之助少将の自決をもって日本軍の組織的な抵抗は終わった。
戦略上アメリカ軍にとって硫黄島は、ボーイングB-29爆撃機による日本本土爆撃の基地として重要地点であり、日本軍にとってもB-29をその往路にも帰路にも攻撃することができる、きわめて重要な戦略的拠点であった。
このため大本営は硫黄島を本土防衛の第一線として確保する方針であった。
日本軍は天然の洞穴や岩場を最大限に利用して地下陣地を構築。
一方アメリカ軍はこれまでの太平洋諸島の戦いで最大量の砲撃・爆撃をもって攻撃。
1ヵ月以上の攻防ののちアメリカ軍は多数の死傷者を出して硫黄島を奪取した。
アメリカ側は戦死者 6891人、負傷者1万 8070人、日本側は投降した 212人を除き全員が戦死、あるいは自決した。
ノルマンディー上陸作戦
ノルマンディー上陸作戦とは、1944年6月6日、第2次世界大戦で連合軍がフランスのノルマンディー海岸に反攻上陸した、史上最大の上陸作戦の名称。
オーバーロード作戦とも呼ばれる。
連合軍は D.アイゼンハワー元帥の指揮下に、軍艦 600隻に護衛された艦艇約 4000隻、重爆撃機 2500機、戦闘機、戦闘爆撃機 7000機、上陸部隊 17万 5000人を投入した。
この作戦のためイギリス本土に 45個師団、約 100万人の上陸部隊が集結、その3分の2がアメリカ軍だった。
作戦は 43年5月 15~25日にワシントン D.C.で練られたもので、F.ルーズベルト大統領、W.チャーチル首相をはじめ、アメリカ、イギリスの両軍首脳部によるトライデント Trident会議によって、44年5月1日を目標に実施されることが計画された。
当日はまず、アメリカ第 82、101空挺師団が上陸予定地付近に降下、イギリスのコマンド部隊がドイツの交通路を分断したのち、アメリカ、イギリス、カナダ、フランスの連合軍が、暗号でユタ、オマハ、ゴールド、ジュノー、ソードと呼ばれた5地点に上陸した。
オマハを除く4地点は比較的早期に成功し、夜までに5橋頭堡を確保した。
連合軍のノルマンディー上陸に対し、E.ロンメル元帥指揮下のドイツ軍が迎撃したが、ヒトラーはこの作戦が主力上陸ではなく陽動上陸だと判断して、主力部隊の出動を禁じたので、すぐに効果的な反撃ができなかった。
バルジの戦い
バルジの戦いとは、第2次世界大戦中、ドイツ軍が西部戦線で行った最後の大攻勢。
アルデンヌの戦いあるいは攻撃を指揮した K.ルントシュテット元帥の名を取ってルントシュテット攻勢とも呼ばれる。
ヒトラーは、ノルマンディー上陸作戦 (オーバーロード作戦 ) 後急速に迫る連合軍戦線を突破し、アントウェルペンを奪回することを企図して、10個機甲師団を含む 24個師団を主攻撃兵力として投入。
1944年 12月 16~19日にかけてベルギーのアルデンヌ前面において雪、霧、雨のなかを、突然攻撃に出た。
奇襲に成功し、22日にはミューズ川の近くまで進出したが、クリスマスには、補給の不足と連合軍の抵抗で進撃は阻止され、45年1月3日に始まったアメリカ第1軍の大反撃によって完全に挫折した。
これによって、ドイツ軍は戦死傷・行方不明者 12万人、戦車・自走砲 600両、航空機 1600機、車両 6000台を失った。
連合軍は戦死者 7000人、戦傷者3万 4000人,行方不明・捕虜2万 1000人、戦車・戦車駆逐車 730両を失った。
この攻撃で、ドイツ軍は致命的な打撃を受けた。
如何でしたか?
どの戦いも膨大な数の戦死者を出していますね。
『硫黄島からの手紙』などの映画でも描かれていますが、このような戦いを2度と起こしてはいけないと思います。
最後までお読み頂き有難う御座いました!