こんにちは!
今日は、大相撲三大力士について紹介したいと思います!
大相撲三大力士に選ばれたのは、
雷電爲右エ門
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
谷風梶之助とは、江戸時代の強豪力士。
幼名与四郎。
生家は代々金子弥右衛門と名乗った。
谷風は江戸力士関ノ戸億右衛門(のち2代伊勢ノ海(いせのうみ))の仙台巡業中に見出され、1769年(明和6)19歳のとき江戸深川八幡(はちまん)興行に、巨体のため当時の風習である看板大関として初土俵を踏み、以後、95年(寛政7)45歳で現役中に帰郷してかぜのため病死するまで27年間、江戸、大坂、京都の大場所を70場所勤め、負けはわずか20回で三都に天下無敵の名をとどろかした。
仙台伊達(だて)家の抱え力士で、89年好敵手小野川とともに初めて横綱土俵入り免許を受け、現在は4代目横綱に数えられている(3代目までは架空)。身長189cm、体重169kgのあんこ型巨人で、7場所連続無敗の記録が2回あり、多くの錦絵(にしきえ)肖像画が残されている。
雷電爲右エ門
雷電爲右エ門とは、江戸時代の強豪力士。
信州大石村(現長野県東御(とうみ)市)生まれ。
本名関太郎吉。
23歳のとき浦風部屋に入門し、1788年(天明8)松江藩主松平家のお抱え力士となり、雷電と名乗る。
91年(寛政3)西関脇(せきわけ)に付け出され、95年谷風のあと西大関に昇進した。
身長197cm、体重169kgの巨体から繰り出す怪力のため、張り手・鉄砲(上突っ張り)・かんぬきの三手を禁じられたという伝説を生んだ。
その強豪ぶりは、1811年(文化8)43歳で引退するまで、21年間32場所三役を下ったことがなく、254勝10敗、勝率9割6分2厘、連続優勝7回という、いずれも古今最高を記録した。
その間、小野川をはじめ11人の東大関を相手に一歩も譲らず、44連勝、43連勝した。
当時「横綱」とは、土俵入りのときに腰にまとう「しめなわ」のことをさしていい、力士の階級でも尊称でもなかった。
そして、徳川将軍の上覧相撲に際して選ばれた大関力士が、儀式としてしめた。
雷電は、その機会に恵まれなかっただけで、当時の最高位・大関で、無敵の強さを誇った。
本名穐吉(あきよし)定次。
明治45年2月9日大分県天津(あまつ)村(現宇佐市)に生まれる。
1927年(昭和2)立浪(たつなみ)部屋に入門、1932年1月春秋園事件で大量脱退力士をみたので、十両から特進入幕した。
1936年5月関脇(せきわけ)に昇進してから、にわかに強豪ぶりを発揮し、前人未踏の69連勝の大記録を樹立した。
70連勝がならず安芸ノ海(あきのうみ)の外掛けに敗れた日(1939年春場所4日目)は、全国の話題をさらった。
その間1937年1月大関、同年5月には全勝3連覇で横綱に推挙された。
178cm、124kgの均整のとれた体格で、右差し左上手(うわて)をとっての投げは無類の強さで、双葉山の姿を一目見ようと、ファンは前夜から国技館の周囲を取り巻くという、双葉山時代を招来した。
暗い世相において長く沈滞した相撲(すもう)界を復興させた功績は大きい。
幕内成績276勝68敗1引分け、優勝12回(全勝8回)の記録を残した。
現役のころから双葉山道場を創設して弟子の養成に努め、1945年(昭和20)11月引退、1946年時津風を襲名し、一代で大部屋に発展させ、横綱鏡里(かがみさと)をはじめ20数人の幕内力士を輩出した。
1957年日本相撲協会理事長に就任し、相撲界の近代化に貢献した。
従(じゅ)四位勲三等が贈られた。
昭和43年12月16日没。
如何でしたか?
伝説的な強さを誇った3人の力士ですね。
双葉山の相撲は、映像で観たことがありますが、痩せているにも関わらず、美しい相撲を取る印象を受けました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!