こんにちは!
今日は、日本三大悪女について紹介したいと思います!
日本三大悪女に選ばれたのは、
築山殿
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
種継の娘で仲成の妹。
藤原縄主に嫁して3男2女を産んだ。
長女が平城天皇の東宮時代、その後、宮に選ばれたのがきっかけで薬子は平城天皇と関係を結び、寵愛を得、尚侍となった。
この薬子を介して、兄の仲成は天皇への接近を図り、参議となった。
大同4年(809年)、病により皇太弟(嵯峨天皇)に譲位した平城上皇は、平安京を離れて平城宮に移った。
これにより権勢の失墜を恐れた薬子らは、上皇の重祚を策し平城京に移り天皇と対立した。
翌5年9月6日上皇は平城遷都を宣言したが、嵯峨天皇の遷都拒否の方針は定まっており、10日には宮中の警備を厳重にし、伊勢、近江、美濃3国を固めさせ、参議仲成を捕えて殺し、尚侍薬子の位官を奪った。
上皇は東国に赴き挙兵しようと薬子と共に平城宮を進発したが、天皇側の軍に遮られ、平城宮に引き返し、上皇は出家し、薬子は自殺した。
日野重政の娘。
16歳で義政に嫁し、初め男子がなかった為、義政の弟の浄土寺義尋(義視)を還俗させて後嗣とした。
しかし寛正6年(1465年)、義尚が生れたので、義尚を将軍の後継者とする為、山名宗全と結び、義視を推す執事細川勝元と争い、遂には応仁の乱を引き起こした。
その為、幕府の実権は失われ、社会は混乱し、政治は腐敗の極にあったが、富子は兄の左大臣日野勝光と結んで賄賂をとり、内裏修理を口実に関を設けて関税を課し、高利貸をして私腹を肥やした。
義尚を将軍にすることには成功したが、彼は延徳1年(1489年)、近江で陣没し、更に翌年、義政も没したので、その権勢も衰え、義視の子の義稙が将軍となると所領は没収され失意のうちに没した。
築山殿
鶴姫。
今川氏の一族関口親永の娘。
今川義元の養女となり、弘治3年(1557年)、家康が今川氏の人質の時、駿河で結婚。
家康より 10歳年長と言う。
家康との間に、1男(信康)、1女(亀姫、奥平信昌夫人)があった。
桶狭間の戦い後、三河国岡崎に入り、岡崎の築山という所に居所を構えたのでこう呼ばれた。
天正7年(1579年)、武田方に内通したという理由で家康に殺された。
如何でしたか?
全員が一概に悪女かは分からないですが、藤原薬子と日野富子は良く出てきますね。
築山殿が選ばれている理由は、正直分からないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!