こんにちは!
今日は、インドシナ三国について紹介したいと思います!
インドシナ三国に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
北は中国と、西は南北に連なるアンナン山脈を自然の境界としてラオス、カンボジアと国境を接し、東は南シナ海、南西はタイ湾に臨む。
国土は S字を引き延ばしたように細長く延び、南端から北端までは約 1600kmに渡るが、東西の幅は最もくびれた所では 50kmに狭まる。
山がちで、国土の 4分の3は山地、高原から成るが、南部ではメコン川が、北部ではホン川がいずれも北西から南東へ貫流し、その下流域に広大なデルタ(三角州)を形成している。
メコン川デルタとホン川デルタはベトナムの二大穀倉地帯となっており、人口も集中している。
気候的には北部は温帯季節風気候、中部から南部にかけては熱帯季節風気候。
住民の 80%以上はベトナム人で、残りはタイ、クメール、タイ、ムオン、ヌン、メオ等、60以上の少数民族や中国人から成る。
公用語はベトナム語であるが、少数民族はそれぞれの言語も使う。
宗教は仏教徒がおよそ半数を占める。
ベトナムは80年に及ぶフランスの支配を覆し 1945年独立したが、間もなく再支配を図るフランスとの間に第1次インドシナ戦争が始まり、1954年、ジュネーブ協定により国土が南北に分断された。
その後、北部では社会主義政権の元に国作りが進んだが、南部では1960年頃から民族解放勢力と政府側の対立が激化し、内乱状態となり、これにアメリカ合衆国が積極的に介入して第2次インドシナ戦争に発展。
1975年4月、解放勢力と北部の正規軍の総攻撃により南の政権は崩壊、アメリカ軍も完全撤退し、民族の悲願であった国家統一が達成され、1976年7月、ベトナム社会主義共和国が発足した。
経済的には、石炭、リン灰石、鉄鉱石、スズ、クロム等の鉱物資源に恵まれ、ベトナム民主共和国(北ベトナム)時代に政府主導で重工業化が進められた北部と、農業が主体の南部との差異が大きい。
戦争による国土の荒廃と統一後の人材流出で大きな困難に直面したが、5ヵ年計画等の元に経済再建に向けて活発な活動が開始された。
戦争で寸断された交通網の修復も急ピッチで進み、1976年末にはハノイとホーチミン市を結ぶ大動脈、トンニャット鉄道が復旧、開通した。
1978年のカンボジア侵攻、1979年の中越戦争によって国際的に孤立し、国際収支が悪化して経済的危機に陥ったが、1986年、ドイ・モイを打ち出し、経済の自由化を進める一方、カンボジアからの撤退を進め、1990年には中国との関係も修復した。
外国資本の受け入れによって製造業は活況を呈し、南シナ海で石油の開発が進んで原油が重要な輸出品となっている。
ラオスとは、インドシナ半島中部東寄りに南北に細長く延びる国。
東はベトナム、南はカンボジア、西はタイ、北西はミャンマー、北は中国に囲まれて位置する内陸国で、メコン川中流部の左岸一帯を占める。
西の国境を成すメコン川に沿うビエンチャン、タケク、サバンナケート、パークセー等の町の周辺に僅かに沖積平野が開ける他は、ほぼ全域が山地、高原地帯から成り、ベトナムとの国境に沿ってアンナン山脈が連なり、北部にはシエンクワン高原、南部にはボロベン高原が広がる。
熱帯季節風気候に属し、南西からの季節風が吹く 5~10月が雨季。
年降水量は 1200~2200mmであるが、ボロベン高原やアンナン山脈等の一部では 4000mmに上る。
住民の半数以上はタイ諸族の1つラオ族(ラオ・ルム)で、その多くはメコン川沿いの低地に住み、主に水稲の栽培に従事する。
残りは多くの少数民族からなり、山地、高原地帯を中心に住む。
人民民主共和国となってから仏教は国教では無くなったが、国民の半数近くは仏教徒。
1949年、ラオス王国としてフランス連合内で独立を認められたが、翌1950年、完全独立を目指して左派のパテト・ラオが結成された。
1953年、ラオス王国完全独立後、パテト・ラオ、右派、中立派による三つ巴の抗争が起こり、内戦に発展、国民経済に大きな打撃を与えた。
1974年の停戦協定で連合政府が樹立されたが、パテト・ラオが次第に勢力を増し、1975年12月、王制を廃止して人民民主共和国の成立を宣言。
1986年以降、経済開放政策を進めている。
経済の主柱は農業で、イネ、サトウキビ、トウモロコシ、コーヒー、タバコ、綿花、ジャガイモ等が栽培される。
国土の 60%以上が森林に覆われる為、林業が盛んで、木材、安息香(天然樹脂の一種)、カルダモン、漆等を産し、これらが重要な輸出品となっている。
水力発電による電力が豊富で、電力の輸出も重要。
機械類、石油が最大の輸入品で、タイを経由して輸入される。
銅、スズ、金、鉛、亜鉛、石炭、鉄鉱石等の鉱物資源に恵まれる。
首都を中心に食品加工、繊維、精米、製材、煉瓦、マッチ、煙草等の軽工業が立地する。
交通は専ら道路と、主要都市を結ぶ空路に依存している。
メコン川は重要な通商路であるが、ケマラートの急流部やコーン滝等に妨げられて、全流路を通じての航行はできない。
東はベトナム、北はラオス、北から西にかけてはタイと国境を接し、南はタイ湾に面する。
南を除く三方をアンナン山脈、ダンレク山脈、クラバン山脈等の低い山脈に囲まれて広がる中央平野が国土の約 4分の3を占め、その東部寄りを北から南へメコン川が貫流する。
西部にはトンレサップ川によってメコン川と結ばれたトンレサップ湖が横たわり、メコン川の洪水を制御する天然の調節池の役割を果たしている。
プノンペンはメコン川の河港都市で、トンレサップ川が合流し、バサック川が分流する地点に位置する。
気候は典型的な熱帯季節風気候で、タイ湾の湿気を含んだ南西季節風が吹く 5~10月が雨季、北東からの比較的弱い風が吹く 11月~4月が乾季となっている。
年降水量は南西風を直接受ける南西部の山地斜面では 4000mm以上であるが、中央平野では 1000~1500mmと地域差が大きい。
住民の 80~90%がクメール族(カンボジア人)で、主に米作を中心とした農業を営む。
他に山地クメール、、チャム等の少数民族や、中国人、ベトナム人等が住む。
公用語はカンボジア語。
1953年にフランスから完全に独立した後、サンクム(人民社会主義共同体)を基盤に実権を握ったシアヌークが 1970年3月に追放され、同年 10月ら王制廃止とともにクメール共和国が発足した。
その後、外国勢力の支援を背景に内戦が続いた。
1976年、民主カンプチア(1990年、カンボジアと改称)が樹立され、ポル・ポト政権下に独自の社会主義建設が進められた。
1979年、ベトナムの支援を受けたカンプチア救国民族統一戦線が首都に進攻、カンプチア人民共和国(1989年4月、カンボジア国と改称)の樹立を宣言、内戦が再開された。
1980年にかけて多数の住民が難民となって国境を越えてタイ領へ流出し、国際的に注目を浴びた。
1991年10月、パリで和平協定が調印され、内戦は終結。
1992年に国連カンボジア暫定統治機構UNTACが設立・発足し、停戦監視、選挙実施等を行った。
1993年5月には総選挙が実施され暫定政府が発足、同年9月に新憲法が制定され、カンボジア王国が成立してシアヌークが初代国王に即位した。
しかし、その後も赤いクメールのゲリラ戦、カンボジア政府内の対立等があり、政情は不安定だった。
1997年7月、ラナリット第1首相とフン・セン第2首相の対立が激化し武力衝突へと発展、ラナリットは事実上国外追放され、フン・センが全権を手中に収めた。
1998年7月の総選挙でフン・セン率いるカンボジア人民党が勝利、11月よりフン・センが単独の首相に就任した。
国民経済は内戦により大きく破壊されたが、元々メコン川が齎す肥沃な土壌に恵まれた農業国で、イネを中心に、トウモロコシ、ワタ、煙草、ゴム、コショウ等が栽培され、次第に経済は好転した。
メコン川、トンレサップ湖では漁業が盛んで、魚類が国民の主要な蛋白質源となっている。
工業は農産物加工が中心で、軽工業の域を出ないが、内戦中に多くの工場が破壊、閉鎖され、工業生産は激減した。
主要交通路はプノンペンを中心とした鉄道、道路で、鉄道はプノンペンから西へ、バッタンバンを経てタイ国境のポイペトへ至る線と、南へ延びて主要港コンポンソムへ至る線がある。
1999年、東南アジア諸国連合加盟。
如何でしたか?
インドシナとは、インドと支那(中国)の間にあるから名付けられたのですかね?
いずれの国も内戦が繰り広げられ、激動の時代をやっと越えたのかもしれないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!