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織田四天王って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、織田四天王について紹介したいと思います!

織田四天王とは、織田信長の家臣の4人のことです。

 

織田四天王に選ばれたのは、

柴田勝家

丹羽長秀

滝川一益

明智光秀

の4人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

柴田勝家

 

 

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柴田勝家とは、安土桃山時代の武将。

権六、後修理亮と称した。

初め織田信長の弟信行に仕え、織田家の老臣林信勝と共に信行の擁立をはかったが失敗し、信長の家臣となった。

度々戦功をあげ、信長麾下第1の猛将と言われ、重臣として勢威を保った。

天正3 (1575) 年信長から北陸経営を任され、越前北庄 (きたのしょう) に拠って加賀、能登を平定。

同 10年越中に攻め入り越後の上杉景勝と対陣中、本能寺の変が起こり、豊臣秀吉明智光秀討滅の功を譲った。

織田氏の後嗣問題で秀吉と対立、同 11年4月これを除こうとして近江賤ヶ岳で戦ったが、逆に敗れ、居城北庄で妻小谷の方と共に自殺した。

 

 

 

 

 

丹羽長秀

 

 

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丹羽長秀とは、安土桃山時代の武将。

近江佐和山城主。

長政の子。

通称、五郎左衛門。

羽柴越前守、一時、惟住氏を称した。

織田信長に仕え、姉川の戦い長篠の戦い等に功があった。

天正 10 (1582) 年四国征伐に出陣の折、本能寺の変が起こり、豊臣秀吉と合流して明智光秀を破った。

以来秀吉に属し、賤ヶ岳、小牧・長久手の戦いに従軍し、柴田氏滅亡後、秀吉から越前国加賀国の一部を与えられ、越前北庄城主となる。

 

 

 

 

 

滝川一益

 

 

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滝川一益とは、安土桃山時代の武将。

左近将監と称する。

織田信長に仕え、天正2 (1574) 年伊勢の長島一揆を平定、長島城主となった。

同 10年武田氏滅亡により上野厩橋城主となったが、本能寺の変後、北条氏に敗れ、長島に帰る。

柴田勝家と結び豊臣秀吉と戦って降り、同 12年7月織田信雄徳川家康らと小牧山に戦って敗れ、出家した。

 

 

 

 

 

明智光秀

 

 

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明智光秀とは、安土桃山時代の武将。

通称十兵衛。

天正3 (1575) 年九州の旧族惟任の称号を与えられ日向守。

父は光綱。

その前身は判然としないが、美濃の土岐氏の支流と言われ、また美濃明智荘に居住し明智と称したという。

初め斎藤氏に仕え、流浪の後永禄9 (1566) 年織田信長に仕えた。

翌年、滝川一益に従い北国征伐に参加し、信長上洛に際しては村井貞勝らと共に京都の政務にあたり、信長の信任を受けた。

元亀2 (1571) 年、若狭平定の軍功により、近江坂本城主となり、滋賀郡を領した。

後朝倉氏が滅亡し、越前が平定されると、柴田勝家らと同国の経営を行い、天正5年には信長の命で丹波に進撃して、丹波経略に尽力した。

その後も荒木村重松永久秀の反乱や紀伊雑賀の一向一揆、また武田勝頼征伐などの諸戦に従軍。

同 10年信長より徳川家康の功を労うための接待役を命じられたが、その準備半ばで、更に羽柴秀吉への援軍を命じられ、憤激して帰国し、丹波亀山城から兵を整え上洛し、6月2日信長を本能寺で討つに至った。

しかしその後の収拾策は遅滞し、光秀謀反に中国路より転進して上洛する羽柴秀吉に対して、味方と頼んだ蒲生秀賢、細川忠興筒井順慶らはいずれも参陣せず、京畿地方の人心の収攬も成功しないまま、13日山崎の戦いで秀吉に大敗、近江坂本に帰る途中、小栗栖 (おぐるす) で殺害された。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

明智光秀は、現在大河ドラマ麒麟がくる』で主人公として取り上げられていますね。

本能寺の変に至った理由は、諸説ありますが、『麒麟がくる』ではどのような原因でどのように描くのか楽しみですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!