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日本四大姓って何?

こんにちは!

 

 

今日は、日本四大姓について紹介したいと思います!

 

日本四大姓に選ばれたのは、

源氏

平氏

藤原氏

橘氏

の4つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

源氏

 

 

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源氏とは、皇族賜姓の1つ。

その由来について、一説には皇族に源を発する意味とされる。

平安時代初期、弘仁5 (814) 年に嵯峨天皇がその皇子、皇女8人に源朝臣姓を賜い、臣籍に下したのが始まりで、治世一代の間、32人に源姓を賜わった。

以後、仁明天皇は6人、文徳天皇は 15人、清和天皇は5人、陽成天皇は3人、光孝天皇は 35人、宇多天皇は2人、醍醐天皇は6人の皇子または皇女に、それぞれ賜姓している。

(1) 嵯峨源氏は信、弘、常など1字名を用い、1世源氏からは公卿8人を輩出、大いに藤原氏と対抗したが、寛平7 (895) 年左大臣融の死後、延喜~天暦 (901~947) 頃を境として次第に衰えていった。

平安時代中期までの源氏長者は、この嵯峨源氏のものがその地位についた。

(2) 仁明源氏の場合、多、冷、光などの1世源氏は公卿となったが、2世以後は不振。

(3) 文徳源氏は1世源氏能有の後裔で、平安時代末期~鎌倉時代に、院北面、検非違使として活躍したものが少なくない。

(4) 清和源氏

(5) 光孝源氏

是忠親王以外多数にのぼる。

(6) 宇多源氏

(7) 醍醐源氏は、盛明親王兼明親王、高明などが賜わったことに始まる。

西宮記』の著者高明が最もよく知られているが、安和の変で挫折した。

(8) 村上源氏

(9) 花山源氏は、顕康に始まり、神祇伯白川氏の祖。

(10) 正親町源氏は、智仁親王の子忠章に始まり、広幡氏の祖。

 

 

 

 

 

平氏

 

 

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平氏とは、皇族賜姓の豪族。

桓武天皇の皇子葛原(かつらばら)、万多(まんだ)、仲野、賀陽(かや)の 4親王の子孫が平姓を与えられて臣籍に降下したのに始まる。

ほかにも仁明天皇の孫雅望王行忠王の子孫(仁明平氏)、文徳天皇の子惟彦親王の子孫(文徳平氏)、光孝天皇の子是忠親王の子孫(光孝平氏)も平姓を与えられたが、葛原親王の系統が発展した(桓武平氏)。

葛原親王の子高棟王は天長2(825)年平姓を与えられ、その子孫は律令官人として重要な地位を得たものが多かった。

一方、寛平2(890)年高見王の子高望王が平姓を与えられ、その子孫は東国に土着して武士として発展した。

高望王は上総介となって任国に土着し、その子国香、良兼、良持、良文、良茂らも関東各地に土着した。

良持または良将の子平将門天慶の乱承平・天慶の乱)を起こして滅亡したが、良文、良茂の子孫は秩父、千葉、上総、三浦、土肥、大庭、梶原、長尾の「坂東八平氏」と称され関東一円に強固な武士団を組織し、鎌倉幕府の創立に貢献した。

一方、国香の孫維衡は伊勢地方に勢力を拡大して伊勢平氏と称された。

その子孫から忠盛、その子清盛が出て、院の北面の武士に登用され、保元・平治の乱で源氏を追放して、武士による初めての政権を六波羅に樹立し、平氏全盛時代を現出したが、元暦2(1185)年3月源氏によって長門壇ノ浦に滅ぼされた。

しかし国香の流れをくむ北条氏は鎌倉幕府に重要な地位を占め、源家将軍断絶後は執権として幕府の実権を握った。

その後も武人の間では源平いずれかを称する風潮があり、織田信長豊臣秀吉なども平氏出身と称した。

 

 

 

 

 

藤原氏

 

 

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藤原氏とは、代表的な大族の1つ。

略して藤氏 (とうし) ともいう。

その出自は神別 (天神) であり、アメノコヤネノミコトの後裔、中臣 (なかとみ) 氏から出たが、天智8 (669) 年中臣連鎌足が「藤原」の姓 (せい) を賜わったのに始まる。

天武 13 (684) 年朝臣の姓 (かばね) を賜い、次いで文武2 (698) 年詔により鎌足の次男不比等 (ふひと) の門だけが藤原姓を襲うことを許され、意美麻呂 (おみまろ) などは神事に奉仕することにより、旧姓中臣に復した。

不比等の娘、光明子 (光明皇后) は聖武天皇の后となり、人臣皇后の先例を開いた。

長男武智麻呂が南家、次男房前が北家、3男宇合 (馬養) が式家、4男麻呂が京家の始祖となり、藤原4家が成立。

南家は仲麻呂 (恵美押勝) が孝謙天皇のとき乱を起して失脚。

代わって式家が台頭したが、薬子の変で頓挫し、京家も麻呂の後裔がふるわず、北家だけ隆盛の一途をたどった。

北家の冬嗣は嵯峨天皇の信任を得、初代の蔵人頭となり、累進して左大臣となった。

その娘順子は仁明天皇の后として文徳天皇を生誕。

良房はその娘明子を文徳天皇の后に立て、外戚として権勢をふるい、太政大臣、摂政の端緒を開いた。

その養子基経もまた摂政となり、次いで初めて関白となった。

こうして北家は、藤原氏の主流の位置を確立し、いわゆる摂関政治を展開し、道長、頼通の頃その最盛期を迎えた。

摂関はまた氏長者 (うじのちょうじゃ) として氏寺興福寺、氏社春日社、私学勧学院などを統轄した。

平安時代末期には、院と天皇の不和、摂関家内部の抗争が表面化し、忠通の子基実が近衛家、兼実が九条家を興して摂関家は2分。

次いで鎌倉時代に兼実の曾孫教実が九条、良実が二条、実経が一条と3家に分かれ、近衛家も基実の曾孫兼経が近衛家を継ぎ、兼平が鷹司家を興し、ここに五摂家となった。

以後五摂家中から、摂政、関白が立てられ、江戸時代末期にいたった。

このほか五摂家に次ぐ家格の清華家大臣家羽林家、名家など上層公家の多くは、藤原氏であり、また平安時代末期以降地方に割拠した武家のなかにも、藤原氏の流れをくむ者が少なくない。

明治になって上層公家の多くは華族に、五摂家はいずれも公爵に列せられた。

 

 

 

 

 

橘氏

 

 

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橘氏とは、古代の名族。

皇別

敏達天皇5世の孫美努 (みぬ) 王から出た。

美努王県犬養 (あがたのいぬかい) 三千代を妻として、葛城王と佐為王とをもうけた。

和銅1 (708) 年三千代が大嘗会の宴に列席し、天皇から杯に浮ぶ橘を賜わり、かつ橘宿禰 (すくね) の姓を贈られた。

美努王の死後、葛城王と佐為王とは、天平8 (736) 年上表して、母の橘宿禰の姓を名のり臣籍に下り、葛城王橘諸兄、佐為王が橘佐為を称したのに始まる。

諸兄は大納言、右大臣、正一位左大臣となった。

その子、奈良麻呂の孫娘嘉智子が嵯峨天皇の皇后となり、その縁から弟の氏公は右大臣となった。

しかし、平安時代初期の書家として三筆の1人にあげられている橘逸勢が、承和の変流罪に処せられて病死したり、参議橘広相 (ひろみ) が阿衡事件でその地位を失うなど、橘氏の勢力は衰えていった。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

日本史でお馴染みの4つの名字ですね。

特に、藤原氏は沢山出てきて、受験生を悩ませますね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!