こんにちは!
今日は、藤原四兄弟について紹介したいと思います!
藤原四兄弟とは、奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子です。
藤原四兄弟に選ばれたのは、
藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)
藤原房前(ふじわらのふささき)
藤原宇合(ふじわらのうまかい)
藤原麻呂(ふじわらのまろ)
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
父は不比等。
母は蘇我武羅自古の娘。
藤原4家の1つ南家の祖。
和銅4年(711年)、従五位上、式部卿、正四位下を経て、養老5年(721年)、従三位、中納言。
天平1年(729年)、謀反の罪で長屋王が自殺すると、大伴旅人を差し置いて大納言、同6月、右大臣、同9年、左大臣となったが、当時流行した痘瘡にかかって没した。
性温和で仏教を信じたという。
不比等の子。
母は蘇我武羅自古の娘。
藤原4家の1つ北家の始祖。
慶雲2年(705年)、従五位下、養老1年(717年)、従四位下、参議。
同5年、従三位、同年10月、元明太上天皇の病気に際し、内臣として帝業を補佐せよとの詔旨を受け、神亀1年(724年)、正三位となった。
同3年、授刀長官、近江、若狭按察使を兼ね、天平1年(729年)、中務卿、翌2年、中衛大将、同4年東海、東山2道節度使となった。
同9年4月、痘瘡にかかり没した。
時に民部卿。
同年10月正一位、左大臣を追贈、食封2000戸を賜わり、天平宝字4年(760年)、太政大臣を贈られた。
母は蘇我武羅自古の娘。
本名は馬養。
藤原4家の1つ式家の始祖(式家の称は式部卿から出たもの)。
霊亀2年(716年)、遣唐副使に任命され、入唐。
帰朝後の養老3年(719年)、正五位上、次いで常陸守として安房、上総、下総の3国の按察使となった。
同5年、正四位上、神亀1年(724年)、式部卿で持節大将軍となり、征夷のため下向。
その功により、翌年、従三位勲二等を授けられた。
難波宮を造営し、天平3年(731年)に参議、畿内副惣管となり、翌年に西海道節度使、同6年、正三位に昇ったが、3年の後、痘瘡にかかり没した。
不比等の子。
藤原4家の1つ京家の始祖。
左右京大夫、参議を歴任。
持節大使として、蝦夷討伐に功があったが、流行の疫病で死去。
如何でしたか?
日本史で登場してくる4人ですね。
奈良時代は、藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂→銅鏡矢→藤原百川と権力者を順番に覚えていけば、流れを理解しやすいかもしれないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!