こんにちは!
今日は、寛政の三博士について紹介したいと思います!
寛政の三博士とは、江戸時代の寛政期に昌平黌の教官を務めた朱子学者3人のことです。
寛政の三博士に選ばれたのは、
古賀精里(こがせいり)
尾藤二洲(びとうにしゅう)
柴野栗山(しばのりつざん)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
古賀精里
古賀精里とは、江戸時代後期の儒学者。
名は樸、字は渟風、通称は弥助、精里はその号。
代々佐賀鍋島家の臣。
初め福井小車、西依成斎より陽明学を学び、後に尾藤二洲、頼春水と交わり朱子学に転じる。
寛政3年(1791年)、幕命により昌平黌に講じ、寛政7年(1795年)、江戸幕府儒員となり、次いで昌平黌教官となる。
林述斎、柴野栗山、尾藤二洲らと共に朱子学の振興に意を注ぐ。
栗山、二洲或いは岡田寒泉と共に寛政の三博士と言われる。
著作『四書集釈』『大学章句纂釈』『中庸章句纂釈』等。
尾藤二洲
名は孝肇、字は志尹、通称は良佐、号は二州、約山。
大坂に出て、片山北海に古文辞学を学んだが、後に中井竹山、中井履軒らと交わって朱子学に転じた。
寛政3年(1791年)、松平定信に登用されて昌平黌教官となり、柴野栗山らと「寛政異学の禁」に参画した。
寛政の三博士の1人。
著書『正学指掌』(1787年)、『称謂私言』(1800年)等。
柴野栗山
柴野栗山とは、江戸時代中期~後期の儒学者。
名は邦彦、字は彦輔、栗山はその号。
儒学、国学を学んだが、天明8年(1788年)、松平定信が老中になった際、召されて江戸幕府の儒官となった。
荻生徂徠の古学の思想に強く影響されていた世の風潮に反対して、朱子学を再び普及することが任務であった。
即ち「寛政異学の禁」の立役者である。
尾藤二洲、古賀精里と共に「寛政の三博士」と呼ばれ、特に文章を良くした。
著書に『栗山文集』『栗山堂詩集』等がある。
如何でしたか?
岡田寒泉を寛政の三博士に含む場合があるのですね。
寛政異学の禁で取り締まられた側も有名ですが、この3人は取り締まるきっかけを作った側のようですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!