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寛政の三奇人って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、寛政の三奇人について紹介したいと思います!

寛政の三奇人とは、江戸時代の寛政期に活躍した、傑出した人物3人のことです。

 

寛政の三奇人に選ばれたのは、

林子平(はやししへい)

高山彦九郎(たかやまひこくろう)

蒲生君平(がもうくんぺい)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

林子平

 

 

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林子平とは、江戸時代中期の経世家

寛政三奇人の1人。

名は友直。

儒者幕臣だった岡村良通の二男。

伊達家家臣の長兄の元で同藩の工藤平助らと交際、後に江戸、長崎に遊学し、オランダ商館や蘭学者の間に出入りして海外情勢に関する認識を深め、天明5年(1785年)、『三国通覧図説』を出版し、蝦夷地の経略を急いで、ロシアの南下政策に対処すべきであると海防論を力説した。

寛政3年(1791年)、『海国兵談』全巻刊行を終え、同様の論旨で江戸幕府鎖国無為政策を批判。

この為、幕府の処罰を受け、自ら六無斎と称し、間もなく病没。

 

 

 

 

 

高山彦九郎

 

 

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高山彦九郎とは、江戸時代中期の勤王家。

上野国新田郡の郷士高山良左衛門の子。

先祖は新田氏。

少年の頃から勤王の志を抱き、京都に上って公家と交遊し、次いで諸藩を巡遊して勤王主義を説き、ロシアの南下を聞き伝えて松前に赴いたが、幕府に圧迫されて久留米に逃れ、自刃。

京都の三条大橋で御所に向かって拝跪した奇行は有名で、今日でも彦九郎の銅像が同所に残っている。

時代先覚者の1人で、林子平蒲生君平と共に寛政の三奇人と称された。

 

 

 

 

 

蒲生君平

 

 

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蒲生君平とは、江戸時代後期の勤王家。

名は秀実、一名夷吾、君平はその字、別字は君蔵、通称は伊三郎。

宇都宮の商家福田氏に生まれる。幼い時、祖母より蒲生氏郷の血を引くことを知らされ、自ら氏を蒲生に改めた。

14歳の時、鹿沼儒者鈴木石橋について学び、国史古典に親しむとともに、屡々水戸に往来して、藤田幽谷と交わった。

水戸学の影響の元に大義名分を重んじ、尊王の志に厚く、寛政11年(1799年)、山陵の実地調査に赴き、京都近郊の他、摂津、河内、和泉、大和を訪れた。

帰途伊勢に本居宣長を訪ね、北陸から佐渡に渡って順徳陵を拝した。

享和1年(1801年)、『山陵志』(2巻)を草する。

これは幕末尊王論の先駆をなすものである。

また、時弊を論じた『今書』、文化4年(1807年)にロシア軍艦が北辺を侵犯するのを聞いて慷慨して著わした『不恤緯』といった憂国警世の書がある。

高山彦九郎林子平と並んで寛政三奇人の1人。

著作『職官志』『皇和表忠録』『女誡国字解』等。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

日本史で勉強したという人もいるのではないでしょうか?

奇人は、やはり頭の良い人物なので、変わった人物は拒否するのでは無く、受け入れることで世の中は変わるかもしれないですね。

 

 

最後まで、お読み頂き有難う御座いました!