いつか役に立つかもしれないムダ知識

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財界新人三羽烏って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、財界新人三羽烏について紹介したいと思います!

 

財界新人三羽烏に選ばれたのは、

鮎川義介(あゆかわよしすけ)

野口遵(のぐちしたがう)

森矗昶(もりのぶてる)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

鮎川義介

 

 

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鮎川義介とは、昭和前期の実業家、第2次世界大戦前の日産コンツェルンの創設者。

父は井上馨の甥にあたる。

東京大学機械工学科を卒業後、芝浦製作所に入社したが飽き足らず、渡米して鋳物工場で働き、帰国後 1910年戸畑鋳物会社を設立し成功した。

第1次世界大戦後中央財界に進出し、28年義弟久原房之助の後を受け社長として久原鉱業 (同年日本産業と改称) を経営、33年自動車製造株式会社を設立 (1934年日産自動車と改称) し、その社長となった。

同年鮎川は日本産業持株会社とし日立製作所日産自動車、日産化学を擁する日産コンツェルンを形成した。

日中戦争勃発後には満州に進出、37年日本産業 (株) を満州国法人満州重工業開発 (株) に改組、その総裁となって、日産を満州に移した。

43年勅選貴族院議員。

戦後は参議院議員となり、56年中小企業政治連盟を結成しその総裁となったが、次男の選挙違反問題が起こり、議員を辞職した。

著書に『物の見方考へ方』 (37) 、『満業百面相』 (40) 、『鮎川義介縦横談』 (53) 、『私の人生設計』 (55) 、『百味箪笥』 (64) がある。

 

 

 

 

 

野口遵

 

 

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野口遵とは、実業家。

昭和初期に勃興した新興財閥日窒コンツェルンの総帥。

1896年東京帝国大学電気工学科卒業後、1906年藤山常一らと共に曾木電気創立。

その余剰電力を用いてカーバイド製造に着手し、日本カーバイド商会設立。

08年ドイツに渡りフランク=カロ式石灰窒素製造法の特許権を買収、前2社を合併して日本窒素肥料を設立、10年日本最初の硫安製造に成功。

更に第1次世界大戦中に再び渡欧し、試作段階にあったカザーレ式アンモニア合成法の特許権を買収、空中窒素固定法に成功し、23年延岡に日本最初のアンモニア合成工場を建設して事業化した。

更にこのアンモニアを利用して人絹工業に進出、31年には延岡アンモニア絹糸を設立、以後日本窒素肥料も工業薬品、火薬、鉱山等関連事業に次々と進出し総合化学会社へ発展させた。

また安価な電力を求めて朝鮮に進出し、発電所建設、窒素肥料工場建設等を進め、大化学工業コンビナート作りに努力、37年頃には日本、朝鮮に跨る多数の企業集団日窒コンツェルンを形成した。

 

 

 

 

 

森矗昶

 

 

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森矗昶とは、昭和電工の創設者。

初め父の為吉を社長とする房総水産会社に加わったが、後、鈴木三郎助の東信電気に参加し、余剰電力を使っての石灰窒素、硫安の生産を計画して 1928年の昭和肥料設立を主導。

一方では日本沃度会社においてアルミニウムの国産化に成功する等、日本の化学工業の発展に寄与した。

39年、昭和肥料と日本電気工業 (日本沃度の後身) の合併により昭和電工を設立した。

その間、立憲政友会から衆議院議員に当選4回。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

日産自動車昭和電工の創設者がいますね。

日本史では、新興財閥として登場しますが、現在も活躍する企業を創設するのは、やはり凄いことだと思います。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!